長野オリンピックが盛り上がっている。頑張れ、頑張れの大合唱だ。しかし、この頑張れという言葉、どうも耳あたりがよくない。英語では ”Do your best!” と訳すしかないらしいのだが、ちょっとニュアンスが違う。頑張れには合理性や現実性の欠如と個人の人格を超えた精神主義的な匂いが色濃く漂っていて、そこがどうも生理的に抵抗を感じるところなのだ。
以前、FIのトップドライバーがインタビューの中で頻繁にモチベーションという言葉を使うことに驚いたことを覚えている。直訳すれば動機づけ、意訳すればやる気という意味だと思うがやる気を出せるかどうかが問題だという言い方が頑張れの国の私には随分と軟弱で甘えた物言いに聞こえたわけだ。日本で、スポーツ選手がそんなことを言ったらマスコミやファンはとんでもないヤツだと非難するだろう。
そもそも、トップレベルで争うような選手達のパフォーマンスを支えているものは、地味で苦しい日々の練習の繰り返しと人並みはずれた集中力であるに違いない。とすれば、そんな日常や瞬間は頑張れなどという曖昧な言葉でどうにかなるもんじゃないだろう。凡人のジョギングとは訳が違うのだ。プロ野球選手の怠慢プレイがとやかく言われることがあるが、考えてみたら135試合いつも体調がベストでやる気満々なんていう方が不自然じゃないか。
楽したい、遊びたい、ゴロゴロしていたい、という人間的な欲望を抑え続け、失敗し負けることへの不安、名声・地位・収入を失うことへの恐怖を超越するまで集中するには、それに釣り合うだけの何かがなければならないのは当然だ。多分その第一は人並みはずれた負けず嫌いの性格、言い換えれば誰もが評価するほどの優越感を得なければ自分が安定しないという不安定な精神構造と異常なまでの欲望が渦巻いているのではないか。そうした自らの「狂気」をコントロールし、能力アップの一点にエネルギーを集約させていくには、なるほどモチペーションという言葉で自分を客観視していく理性が不可欠なのだろう。
語弊を恐れずに言えば、世界一になるような人間を家族や友人に持ちたいとはまったく思わない。例外のあることを否定はしないが、最高峰にメダカの学校はないのだ。マスコミは、すぐに勝者を「いい人」に仕立て上げようとするが、それは頑張れという言葉と同じく幼稚な幻想だと私は言いたい。
とはいえ、テレビの前で応援するだけの私は能天気でよいのだ。「頑張れ、頑張れ」と叫び、勝利を見ることなく父親が逝ってしまった話しに単純に涙する。でもマスコミの人間が日本国中に幼稚で無責任な幻想をふりまくのはいい加減やめにして欲しい。アホは感染する。
蛇足になるが、この話しはスポーツの世界に限らない。政治家に徳を求めるのは八百屋で魚を求めるようなもの(でしたっけ?)という喩えどおり(でもないが)、強力なリーダーは半ば狂人であり、絶大なリーダーシップはほとんど狂気に近いことに、我々は不断に思いを致すべきだと思う。少し大袈裟な言い方ではあるが、私はそういう人間をふたり、間近に見続けたことがある。
輝きの裏には闇がある。



