人間、歳を重ねていくうちに、恋に恋するような、小犬が用もないのに走り回るような、そんな無邪気さから遠ざかっていく。想像の世界に遊び、初体験の連続にときめく時期を過ぎれば、埋め尽くされた日常は果てることなく流れ、増え続ける人間関係は複雑な約束事をともなって隙間を埋めていく。大抵のことは先が見えるようになってきて、気がつくとすっかり用心深くなり、重たくなってしまった自分がそこにいる。かつてあれほど感動したことの多くに、今はもう心が弾まない。それが自立した大人の分別かもしれないし、感受性の老化なのかもしれない。
涙の本質がじつは誰よりも自分自身に対するあわれみであるのと同じように、声高に言う憧れも未熟な自分を補うためのディスプレイ行動に過ぎないと、私は自分の体験からそう思う。だからと言って、ひいきのアイドルに嬌声をあげて涙するローティーンたちに、「自分の幼さを補完しているだけさ」と皮肉るのはやめておこう。それぞれの時点で切実な感情なのであれば、それで良い。
しかし、個人のアイデンティティの重要な部分は、何が好きで何が嫌いかということについての一貫性が支えている。だから、自分の好みが変わったことに気づくのは快いことではない。他人から変節を咎められることを恐れているだけではない。自分自身がわからなくなることにショックを受けるのだ。そして、往々にして人は自分の感性の変質を認めようとせず、かつての自分を演じつづけようとする。
と、偉そうに一般論を書いてきたが、私はどうなのか。
いくつかの波はあったが、かれこれ30年、ブルースハープのあの音色には変わらず心がざわめき立つし、オートバイには心が弾む。たぶん大丈夫、きっとこの先もずっと好きでいられるだろう。こうした世界に出会えたことに感謝し、惚れ続けていられるアレコレに囲まれていることをつくづく幸せに思う。
というわけで、もうすぐF1のスタート。ドキドキしてきた。4月からは2輪のGPも始まるし、6月にはサッカーのW杯もある。そう、私はコドモなんです。自分のために言おう、稚気、愛すべし。



