8日前の4 月 23 日、母が96 歳と 7 か月の生涯に幕をおろしました。
お悔やみの言葉を数多くいただきました。
個人的なことですが、お礼を兼ねて、葬儀でのご挨拶の一部を転記させていただきます。
昼頃、入院先の病院から連絡があり、すぐに駆け付けましたが、最期には間に合いませんでした。
ただ、午前中には看護師や医師と会話し、昼前には「食欲がないから」と昼食を断ったそうで、痛みも苦しみもなく穏やかに息を引き取ったようでございます。
簡単に母の一生を紹介させてください。
生まれは昭和 3 年の 8 月 。今年は昭和百年に当たるそうですから、ほぼ昭和を通して生きたことになります。
祖父は金沢の出身でしたが、当時の第五高等学校でドイツ語の教師をしており、母はその赴任地であった熊本で生まれ育ちました。
女学校に通っていた頃は戦争の真っ只中、授業のかわりに軍需工場で働かされる毎日だったと嘆いておりました。
住んでいた家も空襲で焼かれ、一時は大分に疎開していたようです。
じつは、私の父は高校での祖父の教え子であり、以前から面識があったようで、終戦後の昭和 24 年にふたりは結婚いたしました。
その 3 年後に私が生まれたのですが、数年後から舅・姑との同居生活が始まりました。
まもなく舅は亡くなったのですが、姑とは相性がきわめて悪く、私は母の涙と嘆きのなかで育ちました。
大げさではなく、両親の笑顔を見た記憶はほとんどありません。
こうした生活は姑が亡くなるまで 20 年近く続きましたが、その後は生来の明るい性格を取り戻し、父とともにあちこち旅行に出かけたり、
男子バレーボールの応援に熱をあげたりしておりました。
その後、父が他界するまでの約 40 年間、大好きだった犬たちにも囲まれ、とても幸せな時期だったと思います。
ただ、不肖の息子であった私が心配をかけることが多く、申し訳なかったと思っております。
幸い、この 25 年ほどは、同じビルの上下に住んでおり、食事に行ったり、旅行に行ったり、毎月のように家族マージャンを楽しんだりと、
多少の親孝行はできたかな、と考えております。
この間、長きにわたり親しくしてお付き合いいただきました皆様、ほんとうにありがとうございました。
96 歳まで生きたのですから、大往生だと思います。
姑との苦労はありましたが、最愛の父と結ばれ人生をともに生き、多くの方とのご縁にも恵まれ、十分に幸せな人生だったと思います。
1 年ほど前に急に体調を崩し、施設に入所し、病院への入退院を繰り返しておりましたが、ちょうど私も仕事に戻って心身ともに余裕がなく、
なかなか面会や見舞いに行けなかったことが悔やまれます。
以前「もうこれ以上生きていても仕方がない」と言われた時「そんなことはない、お母さんが生きているだけで守られている気がする」
と返したらとても喜んでおりました。
とうとう両親ともいなくなり、もう話すこともできないのだと思うと寂しさと虚しさがこみ上げてきます。
病床で遺書かわりに記した紙には、最後に書き加えたのでしょう、こうありました。
一生懸命、生きました。
産んでくれて、育ててくれて、守ってくれて、ありがとう。
忘れません。



