私は、テレビのワイドショーのレポーターが嫌いだ。何か事件があると、近所の人から「おとなしい、いい人だったんですけどねぇ」などというコメントをとって、「何が、彼を異常な犯罪者に変えたのでしょう」なんて、自分たちとは異質の人間のように言う。冗談じゃない。そもそも「正常な人」なんていない、つーの 。ワイドショー正義感が多くの人を思考停止にし、世の中を悪くしていると、本気で信じているくらいだ。
私は、これまで、多少の逸脱はあったにせよ、基本的に普通の場所で、平凡に生きてきたと思っている。周囲の目を気にする、臆病な小市民のひとりだ。少しだけ平均値と違うとすれば、わがままで、自分勝手で、こらえ性がないから、「俺はこうしたいんだ。なぜ思い通りにならないんだ。世の中の方がおかしいんじゃないか」といつまでも駄々をこねるというところぐらいか。そんな、「平凡な私」でも、出会ってきた人間たちは、自分自身を含めて、それはそれはいろんな人がいたし、いろんな面を見せられてきた。
前にも書いたが、スポーツ選手であれ、ミュージシャンであれ、政治家であれ、個人の人間力をベースに大衆を相手に事をなす人というのは、「異常な」負けず嫌いであり、「異常な」自信家である、私はそう思っている。「平凡な」サラリーマンや主婦であっても、ねたみや嫉妬の炎を燃やしたり、退屈な日常や未来から逃げ出そうと「自分でも驚くような妄想」にふけることは珍しくないと思う。陳腐な言い方になるが、「正常」と「異常」は連続しており、誰の心の世界も、驚くほど広く、深く、、そして暗い。平凡に生きてきた私が、なぜこういうことを断定的に言えるのか、と自分でも不思議なのだが、それは子供の頃、今でも信じられないような激しい姑を見ながら育ったせいかもしれない。
サラリーマンの時はラクだった。イヤイヤでも、毎朝目覚ましがなって規則正しく一日が始まり、会社には自分の席と仕事が用意され、とりあえず利害を共有する見知った顔が並んでいた。良くも悪くも結果が出て、ボーナスや昇進で評価が確認できる。屋内競技場のようなもので、叫んだ声は必ず誰かの耳に届き、こだまして返ってくる。あらかじめ線の引かれた走路があり、それは閉じている。もちろん、家に帰っても同じこと。夫やお父さんという立場と義務があり、不自由だがやるべきことは「常識」が教えてくれた。
屋外は違う。一人暮らしの学生時代はそうだったかもしれない。もっと自由だったが、孤独で、どうしてよいかわからなかった。ノイローゼになりかけた。会社勤めを辞めてからも、少し似たような状況があった。
自殺する人が多いらしい。精神を病む人も多い。「異常な」犯罪も増えているという。でも、本来、人間は何でもできる。どんな「異常」な人間にもなれる。「正常」に生きているのは、たまたまそういう環境に身を置いている、置かされているからに過ぎない。そのことに気づいていないらしい人が多いのは、考えたらそれこそ何より「異常な」ことだ。養老さんの言う「死」と似た面があるかもしれない。だから、私は用心深いし、臆病だからこそほんの少しは「異常」を「正常」にできる人間だと思っている。新年早々、へんな日記になったな。



