2週間前、海外における日本人旅行者の生態について書いた。友人は日本人の女性たちの貞操観念の喪失を嘆いていたが、私も大きなショックを受けた。しかし、そのことを書きながら、私は自分自身のリアクションに苦笑していた。
近頃の若い娘はどーのこーの。こういう話題になると急に感情的なモラリストになる、これは間違いなく典型的なオヤジの兆候だ。そのせいか、書きなぐった後、どうも後味が悪い。なにか違う、という気分が残った。少し考えてみた。


自分の息子を含め、ハイティーンの連中と接していると対話のベースが成り立ちにくいことを強く感じることがある。議論しようにも、同じ舞台に立てないようなもどかしさがある。
たとえば、世の中の矛盾に対して問題意識を持ち、これをなんとかするために現状に抗おうとする情熱、その志を共有できる仲間を求める欲求。そういうパッションが希薄なのに驚かされ、言葉を失ってしまう。
社会の中での個人をとらえようとする空間軸のイメージや、過去から現在・未来へと考えを組み立てていく時間軸が曖昧になっていると、意見交換はすれ違いばかりになる。きわめて個人的で感覚的な快さだけが判断の基準になるのでは、コミュニケーションはむずかしい。


目標と方法論を明確にして未来への夢を描き、そのために不断の努力を続けることの大切さを語っても届かないし、自立した人間になることの価値を説いても通じない。いいんじゃないのとかうざったいよという言葉を返された瞬間、人間の価値とか生きていくことの意味に向って語り合う意欲が萎えてしまう。


1960年代の後半にハイティーンであった私には、主義主張は別として、社会を考え、未来を考え、自分を考えることこそが自分の存在そのものを意味のあるものにしてくれるという意識があり、この感覚を多くの人と共有できることを信じているところがある。この確信に安住しているのは単純に過ぎることかもしれないが、信じていられるのは幸せなことだ。
時代は違っても、人間が社会的な存在であるという点において、今のハイティーンたちも客観的にはまったく同じ空間と時間の中に生きているのだと私は思っている。違っているのは、彼らが、そのリアリティを実感する機会を徹底的に失っている点なのではないか。そんな状況は、世界的に見て、きわめて特異な状況に違いないし、ある意味でとても不幸なことだと、私には思える。


海外を放浪する日本人、とくに女性達が増えているらしい。日本や日本人に対する生理的な嫌悪感。自分の居場所がないような疎外感。既存の倫理観から跳ぼうとする欲求。マクロ的に見れば、彼女たちの生態を「孤独な反乱」と呼ぶ見方は正しいし、健康的な反応であると思う。。しかし、ミクロ的に見れば、あまりに幼稚で、無防備で、不勉強で、傲慢で、無自覚に過ぎる。例えば、イスラムの国の彼と結ばれ、子供をなし、結婚し、かの国に暮らしている女性達の多くがどういう状況で毎日をおくっているかという情報は少しも伝わっていない。大使館の落書き帳には彼女たちの助けを求める叫びがあふれているそうだ。


感覚に流されていった挙げ句に現実に捕らえられてしまう、マクロ的に見れば、それは日本という社会の罪だが、ミクロ的に言えば、見えない現実をバカにし、見ようとしなかった者の罪なのだ。


時代が教師という言葉がある。世の中、不況、不況と騒がしいが、金にあかせて空いっぱいに書き割りの青空を描いてしまった時代こそ異常なのだ。時代の雰囲気が変われば、人間たちの在り様も一変する。悩み、考え、努力することが肯定的に語れる時代になってほしいと思う。