9月20日に開幕した「第9回 ラグビーワールドカップ」の熱戦が続いている。
日本戦に限らず、テレビで放映される試合をすべて観戦し、自分でも驚くほど盛り上がっている。
昔々、高校に入ってすぐ、私は数か月間だけラグビー部に所属していたことがある。
ところが、根性主義の時代のこと、試合はもちろんミニゲームにも参加できず ただ走らされるばかりの練習に嫌気がさして退部したので、細かいルールもわからないまま、トップリーグも見に行ったことがない。
いわゆる 「にわかファン」のひとりである。
でも、ラグビーには私の心を震わせる何かがあって、昔、国立競技場をにぎわせた早明戦や早慶戦を見に行って大声をあげたり、その後も日本代表の「善戦」に心躍らせたり、4年前のイングランド大会で南アフリカを破った「スポーツ史上最大の番狂わせ」は中継を見ながら泣きそうなほど感動した。
だから、今回の大会はとても楽しみにしていたのだが、まさか日本が予選リーグを全勝で勝ち抜けるななんて想像もしていなかった。
開幕のロシア戦、アイルランド戦、サモア戦、スコットランド戦、どれもこのまま離されて負けるのかなぁ、逆転されるのかなぁ、半分腰を引いて応援していたのだが、こんな結果になるなんて、嬉しすぎる。
しかし、各国の試合や関連のニュースを見ながら、こみあげてくる感動の源泉は、日本代表の活躍だけではなく、このスポーツが本質的に持っている別の部分にあることに気づかされた。
ルールであるとはいえ、不利な判定に対し感情的になるプレイヤーがいないのはなぜ?
一方的な負け試合なのに、最後の最後までふてくされることなく全力でプレイするのはなぜ?
ノーサイドの直後、さっきまで格闘していた相手と笑顔で称えあうことができるのはなぜ?
試合後、なぜ相手チームのロッカーまで出向いてラフプレイを詫びにいき、それに拍手で応えるのはなぜ?
試合が中止になったのに、現地に残り、ボランティア活動に参加するのはなぜ?
何年も苦しい練習を続けてきたのに「自然災害の現実に比べれば、ラグビーなんてささいなこと」と言えるのはなぜ?
応援しているファンが相手チームの国歌を歌い、試合後、穏やかに相手の試合ぶりをほめることができるのはなぜ?
今回は解説にまわっている五郎丸選手が4年前の南アフリカ戦を振り返り、次のようなことを話していた。
「あの劇的な勝利の後、我々は歓喜のあまり選手同士で喜びを爆発させていました。
しかし、すぐに南アフリカの選手が近づいてきて、勝利をたたえてくれたのです。
その瞬間、ラグビーが実現しようとしていること、求めていることは別のところにあることに気づかされ恥ずかしくなりました。」
ラグビー憲章 を読んで、すべてのことが腑に落ちた。
そこには、 このスポーツの根底にある理念や哲学、大切にすべき精神が、次の5つの言葉に集約されて明記されている。
品位(Integrity)。
情熱(Passion)。
結束(Solidarity)。
規律(Discipline)。
尊重(Respect)。
もちろん、ウルグアイ選手の泥酔暴行事件や、スコットランド協会の「日本戦を中止すれば法的手段に訴える」という、残念な例外もあった。
ちなみに、後者については、ヨーロッパの人たちは、台風や地震や津波の恐ろしさを経験したことがないのだな、と思った。
つくづく、日本に住む我々は、大昔からこうした自然の脅威にさらされ、耐えることによって、生きてきたのだなぁ、と思った。
こんなラグビーの世界に惹かれていると、ついついサッカーと比べてしまう。
審判を欺くこともテクニックのうちと考え、大げさに倒れたり、演技したりする選手。
試合中も試合後もレフェリングに文句を言う、選手や監督。
相手をののしり、軽蔑を隠そうとしないサポーターの言動。
ラグビーは上流階級の恵まれた人たちのスポーツで、サッカーは庶民のスポーツだから、という説明を聞いたことがある。
でも、きれいごとであれ、「人間、捨てたもんじゃないなぁ」と思わせてくれる世界を引きずり下ろす必要はない。
こんな理念や精神が浸透していけば、世の中はもっと美しく生きる価値のある世界になっていくかもしれないと夢想するのを冷笑する必要もない。
私は、こんなやせ我慢や理想主義が好きだ。
この1週間、風邪気味で微熱が続いている。
でも、なんとしても、この週末、準決勝の4試合を全力で観戦する。
こんな素晴らしい機会を見逃すわけにはいかない。
日本、頑張れ。そして、どの国の選手もみんな頑張れ。
そして、気高い人間の心を見せてくれ。



