Wカップも残りわずかとなった。なんと、日本が決勝トーナメントに進んでいる。おかげさまでベルギー戦は実際にスタンドで応援できたし、時差に悩まされずテレビ観戦できるし、存分にサッカーを堪能している。
Wカップはスポーツにとどまらず国と国との戦いだという人がいる。少々大げさではないかと思っていたが、確かに、サポーターの応援ぶりを含め、それぞれの国民性が強烈に伝わってくる。生活の中でのサッカーの占める濃淡、代表チームへの思い入れの強弱に、さまざまな背景や事情が見え隠れしている。サッカー文化と言われることの意味を少し理解できたような気がする。
残念ながらベスト16で敗退してしまったアイルランド。最初から最後まで全力で戦う選手たちの気迫に魅せられたが、それ以上にサポーターの気持ちの強さに感銘を受けた。解説によれば、緑の装いのサポーターの半分はアイルランド本国からではなく、世界中から母国の応援のために集まってきた人たちなのだそうだ。民族のアイデンティティの強さに驚かされる。これは、アイリッシュたちの悲惨な過去や差別の歴史と無縁ではないだろう。
現在ほとんどがフランスで生活していながら、かつての宗主国にだけは負けたくないというセネガル選手の思いにも心打たれた。民族や国家への帰属意識は、長い間他国の支配を受けていた国ほど強いのかもしれない。アフリカ諸国・東欧・南アメリカ、そして韓国。熱狂的な応援であっても西欧諸国の場合とは質的に違うような印象を受ける。
さて、いっぽう、日本の場合はどうか。イケメン軍団に浮かれるミーハーはご愛嬌として、国家や民族の尊厳を賭けた戦いという意識は希薄なのではないか。国内の日本人だけではない。ブラジルの日系人社会では、1世は日本、2世以降はブラジルを応援する傾向があるのだそうで、血の薄さを感じてしまう。よく言われるように、島国という地理的な条件、自然に恵まれた温暖な気候、他国の侵略によって存亡の危機をさまようことのなかった歴史が、世界でも稀な「こだわりのない国民性」を育み、許してきたのかもしれない。
加えて、私のように戦後教育を受けた世代には、日の丸を掲げ、君が代を歌うことに躊躇する習性がある。日本チームを応援しても、他国への敵愾心をあらわにする所までは行けない。事実の解明や責任の所在を曖昧にすることで居場所を探してきた戦後は、我々に妙な後ろめたさとフラストレーションを与えてきた。その典型が韓国に対する遠慮がちな気分だ。
ところが、どうも味わったことのない胎動が生まれ始めている。日韓共催という現実と、参加各国のむき出しの国家意識・民族意識を目の当たりにして、思いを屈折させ沈めていたぶ厚いベールが少しずつ剥ぎ取られていくのを感じる。学校でも国技館でも一度も君が代斉唱に加わったことのなかった私が、さいたまスタジアムでは大声で歌った。サポーターの掲げる無数の日の丸に泣きそうになるほど感動した。これは悪くない気分だ。長い間のコンプレックスから少しずつ解放され、くびきが解けはじめ、薄暗い霧が晴れていく感じ、体中が軽くなっていくような気がする。
チュニジア戦をテレビで見ていたら、スタンドの若いサポーターたちが「日本、大好き」というパネルを掲げていた。若者の多くが生まれ育った国に愛想をつかし、自己実現の場を外国に求める幻想を追っている日本、その気持ちが痛いほどわかるだけに、この光景は鮮烈な印象を私に与えてくれた。たかがサッカー、されどサッカーである。政治家たちが国旗・国歌法を強行採決したのとはまったく別の次元で、日本人であることに自然に誇りをもてる状況が、そしてその気持ちを素直に表現する気分がWカップの舞台で現実のものになりつつある。
争ってはいけないというトラウマに捕われ、平和的解決という結果だけを追って妥協することに慣れ過ぎた日本人。争わないために本音を隠し続けているうちに自分を見つめ語ることを忘れてしまった日本人。我々にとって、サッカーというスポーツは、勝つために自らを見つめ、徹底的に競争し争うことのすがすがしさをほんとうに久しぶりに見せ付けてくれている。選手たちの闘争心や喜怒哀楽の表現が、眠っていたものを呼び覚ましてくれているように感じる。
私は、ずっと日本人であることに誇りを持ちたいと願い続けてきた。日本人も捨てたもんじゃないぞ、日本は素晴らしい国だと思わせてほしいと願い続けてきた。それなのに、政治の世界もビジネスの世界もロクにニュースがない。うんざりするような事が、もう何十年も続いている。トラウマを克服できず、出る杭を打ち無菌化することを良識のように吹聴してきたマスコミ、逆に形式的な組織論や威圧的なナショナリズムに頼るしか能のないエスタブリッシュメント。そんな中で無我夢中にピッチを走り回り真摯に戦い続ける選手たちは、確かに一陣の風を送ってくれている。
もちろん、こんなことは当の選手たちの意識とは無縁のことだ。しかし、微かに吹き始めた風によって晴れてきた霧の方向に求めていた何かがあるという予感がする。Wカップが終わり、皆が再び視線を落としてしまう前に、再びベールで心を覆ってしまう前に、この風が止むことなく吹いてくれないものか。
肝心のマスコミのお粗末な感性はどうだ。「次の試合、日本は勝てますかねぇ」という分析と、人気選手の追っかけと、サポーターの熱狂ぶり、伝えるのはそればかりだ。たとえばストイコビッチを招いたなら一言でも旧ユーゴが分裂し、かつての仲間がスロベニアやクロアチアとして参加していることについてのコメントを求めみたいとは思わないのか。アイルランドのサポーターの心情に迫るインタビューはできないのか。残念ながら、風はまた止んでしまうのだろう。



