6月に入った。
数か月で 約10億円の資金調達を果たし、平常心で事業を継続できる基本が確保できた。
先が見えなかった利用者の減少もGW頃に底を打ち、回復傾向が明らかになってきた。
壊滅的な影響を受けている宿泊業界で、すぐれて堅実な状況にあると言えると思う。
とりあえずは一安心である。
創業から25年、バブル崩壊や リーマンショックや東日本大震災など、大きな災禍をしのいできたが、今回もしぶとく乗り越えられそうな気がしてきている。
500年、1000年企業を目指しているのだから、この程度の逆風で吹き飛ばされるわけにはいかない。
そのためにも、ピンチはチャンス。
絶好の成長機会として活かしていこうと、業務の見直しに取り掛かっている。
さて、先日来考え続けているコロナの問題。
先日もあるテレビ番組を見て、なんとなく腑に落ちる考えにたどり着くことができた。
そのきっかけは、日本人の哲学者が紹介していたドイツのメルケル首相の3月18日のテレビ演説で語られた以下の言葉だ。
日常生活における制約は、
渡航や移動の自由が苦難の末に勝ち取られてきた権利であるという経験をしてきた私のような人間にとり、
絶対的な必要性がなければ正当化し得えないものなのです。
民主主義においては決して安易に決めてはならず、決められるのであればあくまで一時的なものにとどめるべきです。
しかし、今は命を救うためには避けられないことなのです。
言うまでもなく 、この言葉の背景には東ドイツで生まれ育った彼女の切実な経験と歴史認識がある。
そして 、そこから導き出された人間の営みの根本についての哲学がある。
ドイツの人々はうらやましいなと思った。日本のリーダーにもこうした「哲学」を語ってほしいと思った。
間違いなく私の感性や考え方の根底には「個人の自由を大切にしたい、するべきだ」という強い思いがある。
「自由」といってもいろいろある。
日本国憲法の中だけでも、思想・良心の自由、信教の自由、学問の自由、集会の自由、結社の自由、表現の自由など
さまざまな「自由」が明記されている。
ただ、こうした自由の中でも、もっとも基本的で重要なものが「移動の自由」だ、と私も思う。
再び日本国憲法に戻れば、それは居住移動の自由、外国移住の自由、国籍離脱の自由などを含む。
以前にも紹介したが、旅籠屋の「総合ガイド」の冒頭に「気兼ねなく、好きな時に、好きな所に行ける自由」のことを掲げている。
つまり、宿泊施設、少なくとも「ファミリーロッジ旅籠屋」がもっとも大切にすべきことは、その自由を守ることだという信念がある。
そのために、分け隔てなく気軽に泊まれる、すなわち多様性を受け入れるというポリシーがある。
抽象的なきれいごとではない。
ファミリー・カップル・ビジネス・ペット連れなど目的や構成の違い、
年齢・性別・人種、身なりなどの外見や身体的な違い、
言語や文化的習慣などコミュニケーションに関わる違い、
非常識でわがままなクレーマーを含め、性格や考え方の違い、
いわゆる障害と呼ばれる差異を含むすべてに関わる多様性。
いずれも、予断・偏見・先入観にとらわれず多様性を受け入れるということは、それなりのリスクを引き受ける覚悟を持つということだ。
ひるがえって、今回の外出自粛要請。
新型コロナウィルス感染の恐怖が強調されるが、少なくとも日本における感染状況を見る限り、
絶対的な必要性があるとは、到底思えない。
命か経済かではなく、感染拡大のリスクを抑えるために人間社会の根本を支える「移動の自由」を制限すべきかどうかという問題ではないか。
ゼロリスクを求めるのなら、そもそもインフラを支えるサービス業など成立しない。
戦争中にも行われなかったほどの移動制限を行う必要性を、この数か月の状況の中で、私は認めることができない。
そんな風潮や風評に流されることこそ、いさめるべきことだという反骨心が湧いてくる。
「自粛警察」の感情的糾弾を甘受し、「ファミリーロッジ旅籠屋」は平常通り営業を続ける。
他県ナンバーだからと石を投げられる人にも宿を提供し続ける。
そのリスクをとりたくないのなら、病院や交通機関や宿泊施設で働く人々は転職を考えるべきだ。
職業選択の自由は、もちろんある。



