宿の客室の照明は明るいほうが良いかというテーマで議論したことがある。私は10年以上住宅メーカーに勤めていたため、照明計画にはこだわりがある。それに従い、旅籠屋の照明は原則としてすべて白熱電球色に統一、客室内の照明も部分照明だけにしているのだが、たまに客室の照明が暗いという指摘を受けることがある。明るいほうが良い、という意見には大別してふたつの理由がある。
第一は、部屋の中で手紙を書いたり、荷物の整理をしたりする時、充分な照度が必要というもの。これは照明の持つ基本的な機能であり、軽視することはもちろんできない。しかし、ここで忘れてならないのは、明るさが必要だからといって部屋中を照らす必要はないということではないかということだ。必要な場所に必要な量と質の照明が確保されていればよいのであり、部分照明でよいのではないかと思う。
もうひとつの理由、それは心理的な問題。これは多くの日本人が慣れきってしまっている住宅の照明との違和感に由来する。部屋が薄暗いとなんとなく落ち着かず、不安になるという指摘だ。かつて書き連ねたことを以下に転記する。
・・・この感じ、よくわかります。部屋全体が暗いと閉所恐怖症ではありませんが、なんとなく圧迫感を感じます。 外国のホテルは総じて部屋のスペースは広いのですが、照明が暗いためになんか息苦しくて気力が吸い取られていくような感じがします。しかし、あえて言いたいのですが、隅から隅まで明るくないと落ち着けないという我々現代日本人の感性や習性もこれで良いのか、と疑問に思ったりしませんか。欧米の住宅に行ったり、映画なんかを注意深く見ていると、部屋全体を照らす照明はほとんどなくて、ダウンライトもない場合が多いのです。 そのかわり、リビングにもパーソナルな大きなイスがあって、その傍には必ずフロアスタンドが置いてある。つまり自分の空間は与えられるものではなく、自分の力で作り出すわけですね。おおげさな言い方と思われるかもしれませんが、 ひとりひとりが自分で自分の場をつくりだしていく強さのようなものを感じるのです。人間関係や、社会と個人の関わり方にも通じるような気がしませんか・・・
ここ数十年、日本の住宅では部屋全体の明るさを求めるために、天井に蛍光灯を並べることが多い。作業空間を除き、あの白い光は居住空間には適当ではないと私は感じている。白熱色と蛍光色の光源を混在させるのは論外だ。これは光の質の問題だ。
・・・私が住宅メーカーのモデルハウスを見たり、お住まい拝見などのグラビアを見て、そのセンスを判断する材料のひとつは、照明の質の統一を意識しているかどうかです。たとえば、和室の床の間に蛍光灯を使っている家、居室の天井に白熱球のダウンライト(天井埋め込み照明)と蛍光灯のシーリングライト(天井付け照明)を混在させているような家は、はっきり言っていただけません。どうしても用途に応じて光の質を変えたいのなら、コードペンダントやスタンドなど、常時点灯しない部分照明に限って組み合わせるべきです。
私は、宿の照明について、絶対的な照度だけでなく、光のメリハリ、光の質、そして照明器具のデザインなどを考えたいのです。谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」でもありませんが、日本人は少し光に対するデリカシーを失っているように思いませんか。駐車場の水銀灯など「光害」の最たるものです。
昔から不思議なのですが、本格的な書院づくりの和室などと謳い、庭や建築にお金をかけた割に、照明といえばせいぜい表に障子をはめ込んだ蛍光灯のシーリングライトだったりするケースを多く目にします。ホントの和室なら、昔はローソクや油による行灯の光に頼っていたわけで、闇がたたずんでいるような中を赤く揺らめく光が一隅だけを照らす、そんな雰囲気だったわけでしょ?そういう日本人の夜の過ごし方を意識したデリケートな照明計画があっても良いはずなのです。
旅館の客室の照明、無神経だと感じたことはありませんか。かすかな湯の香り、川のせせらぎ、そして窓越しの月明かりを感じながら過ごすような風流を、背伸びしてでも私は感じてみたいものです・・・
しかし、宿の側が宿泊客の意見を無視してひとりよがりになるわけにはいかない。ホテルや旅館に宿泊するのは白く明るく照らされた家の中で暮らしている人たちなのだ。難しい。だが、そもそも日本には先例のないスタイルの宿を目指して「旅籠屋」をスタートさせたのだ。従来の最大公約数に無条件に流されるのは性にあわない。
・・・私も、初めて外国でホテルやレストランに行った時は「暗いなー」とイライラしました。ただ、前にも言ったとおり、そういう風に感じている自分は、今の日本の照明習慣に慣らされてしまっている自分であって、一歩踏み込んで、「それじゃ外国の人はこれで不満を持たないのだろうか。明るくないとイライラする日本人の方が少数派なのかもしれない」なんて考えてみたいのです。
繰り返しになりますが、天井に蛍光灯をベタベタつけて部屋中を明るくして(最近は廊下を含めて家中かもしれない)暮らしてるなんて、せいぜいここ3〜40年間のことでしょう。それも日本に特殊なことかもしれない。暖炉や囲炉裏の火、ひとつだけぶら下がった電灯が持っていた求心力、空間のメリハリ。機能だけで測れない照明の意味をもう少し考えてみませんか。
私は、ローソクや油の光に頼っていた昔に戻れとか、欧米人の習慣や文化を真似ろ、と言うつもりはもちろんありません。昔はそういう明かりの取り方しかできなかったのかもしれないし、外国の習慣も合理性を欠いているかもしれないからです。ただ、情報社会の中で、多くの情報を得ることより、自分の判断で選んでいくことが重要であるように、自分の第一感にひと鍬(クワ)入れてみる「こだわり」がなければコミュニケーションなんて不毛だと思うのです・・・
家中を光で充たすような暮らしは高度成長期以後のことではないか。そもそもこういう照明を当たり前にしてしまったのは誰だろう。かつての住宅公団の設計者たちだろうか。戦争中の記憶も含め、暗く貧しい灯かりに息を殺して育った人達が、高度成長の時代の中で昼間のような白色の明るさに憧れ、それを豊かさの象徴のように追い求めたのだろうか。貧しさからの脱却、もっと光あふれる未来を!そこまでは良しとしよう。しかし、なぜ1億の人間が皆そろって「明るさ」礼賛に走っていったのか。住宅メーカーの設計者や建築家や街や村の大工さんたちに「後ろめたさ」はなかったのか。時は移ってインテリアコーディネーチャンやグリーンアドバーチャンが氾濫するご時勢、私はまず灯かりを消して目を閉じよと言いたい。貪欲な量への欲望、高機能への崇拝、成り金集団の醜悪ではないか。
アジアの混沌、無秩序な熱気、それもわかる。確かにここはヨーロッパじゃない。しかし、上海でも香港でもない。蛍の光、窓の雪と歌って来た国ではないか。万事において「一灯の光明、一隅を照らす」的な生き方を貫こうとする「変人」の方に私は一票を投じたい。



