イラクで拘束されていた日本人が解放されて半月が過ぎた。ワイドショー番組が嫌いなので、家族たちの当初の言動を見聞きしていないが、その後にわき起こった異様な「世論」の盛り上がりや政府高官の発言には強い違和感を感じた。前もって言っておこう。私はこういう「世論」に組しないし、「自己責任論」にも賛成しかねる。


国の方針に反した行動をとるなんて自由の履き違えで、自分勝手だ。再三の退避勧告を無視して入国したのだから自業自得だ。自衛隊撤退の交渉の材料にされ、結果として国全体を難しい立場に追い込んだくせに、「残りたい」とか「また行きたい」なんて非常識だ。「戦争中」の国に行ってボランティアなんて、そもそも考えが甘いのではないか。世間知らずの未成年のくせにこんな行動をとるなんて親のしつけがなってないのではないか。助けて欲しいという気持ちはわかるが、声高に政府の方針を批判する家族の発言は自分勝手だ。自由には責任がともなう、救出にかかった費用は、当然負担すべきだ。・・・「自己責任」を強調する「世論」の大筋はこんなところか。


こうした発言の多くは、ちょっと聞くと道理にかなったことのように聞こえるし、当人は常識をわきまえた良識人としての心地よさを感じているだろう。しかし、「常識」にもたれかかったような「正論」は、疑ってみる必要がある。自分が彼らの立場だったら、自分の家族だったら、彼らが政府の職員だったら、有名企業の社員だったら、医療援助のスタッフだったら、・・・など、要素をいろいろと置き換えてみると感じることが違ってくる。もしかしたら、多数派に同化しようとする事なかれ主義、自分を棚に上げて人を批判する偽善、多数派に迎合しない頑固者を「村八分」にする卑劣な自己保身、そういう無意識が隠れているかもしれない。感覚的に「心地よい」結論に逃げ込む前に、根拠のない先入観や偏見にとらわれて自分の感覚が汚染されていないか、まず自覚的に心の中をチェックしてみる必要があると思う。それは例えば、以下のようなことだ。


●独自に活動しているNGOメンバーやフリージャーナリストを不可解な人種と考え、公職にある人よりも信用できないと思い込んでいないか。
●大きな組織の判断や行動は誤りが少なく、その命令に従って行動している人間は正しい。組織に頼らず個人の自由意志で行動している人は思慮が足りず身勝手だと決め付けていないか。女性や未成年者を自立した人間ではないと蔑視していないか。
●外国とのつきあいは政府や企業など、広く認知された組織の人間が「責任」を持って行うべきことで、個人や任意の民間団体がしゃしゃり出るべきことではない、と断じていないか。
●政府や企業が行えないこと、行おうとしないことを行い、隠していることを正せるのは一体誰なのか。利害に影響されない純粋な人道的な支援や、人間同士の交流や情報交換を行うことは非難されるべきことなのか
●国を「家庭」の延長のようにみなしていないか。国家と国民の関係を、任意の契約によって成立している組織と個人の関係に置き換えて混同していないか。
●国家の最大の義務は国民の生命と財産を守ることだが、国策に沿わない人間はその対象から除外してよいと解釈していないか。為政者に都合のよい選択権を与えてよいのか。
●少数意見の尊重という理念が、なぜ民主主義の本質のひとつであるとされるのか、その経緯や歴史の教訓を忘れていないか


私も、知らず知らずのうちに偏見と先入観に染まっている人間である。だから、上に挙げたことの多くは、私自身の心の中にある意識でもある。周囲の多くの人が似たような意識を持っているなら、それに同調して「みんなが言ってること、無理ないよねぇ」と認めて「常識」や「良識」に埋もれてしまいたい誘惑も感じる。
私はNGOで活動している人たちと直接の面識がない。だから、中には信用の置けない「にわか人道主義者」や、自分勝手な「偽善者」や、思慮の浅い「世間知らず」がいる可能性を否定しない。同時に、周囲の反対に負けず、安穏な生活を犠牲にして信念を貫こうとする志や勇気を持つ人達がいることも否定できない。今回の事件に巻き込まれた人達がそのどちらかはわからない。しかし、それはどちらでも良いことだ。


私が考えたのは次のようなことだ。


●自分と異なる言動を実行する人の存在は愉快ではない。まして、その結果が少しでも自分に影響を与えるとしたら、その言動を封殺したくなる。しかし、自分が逆の立場に立つことだってある。正しいと思って行動しているのに多くの人から理解されないこともある。偏見や誤解を受け、数を頼んだ脅迫的な批判にさらされることもあるかもしれない。自分だけならともかく、関係のない家族や友人知人までが偏見を持って白眼視されるかもしれない。プライバシーが暴かれ、さらし者にされるかもしれない。だから、他人を批判するには、正確な情報にもとづく理解や冷静な議論が必要である。その機会を確保するために、たとえ非常識に思える意見であっても、その表現と行動の自由は最大限保障されるべきだ。圧倒的多数が少数を押さえつける状況は、取り返しのつかない先例を認めることになる。
●儒教の影響かもしれないが、日本人には独特の集団帰属意識があり、個人を犠牲にして集団の利益に従うことを美化する傾向がある。しかし、組織というものは矛盾を孕んだ存在であり、権威や権力は一人歩きして必ず誤りを犯す。組織の規律や意思決定システムは尊重すべきだが、個人の異議申し立てや逸脱した言動の余地を残すことは絶対に必要である。組織や集団に従う犠牲的精神は密かに抱くべきものであって、強要すべきものではない。
●我々は自由意志によって国と任意の契約を結んで国民でいるわけではないし、町や村の住民であるわけでもない。国家や共同体についての素養がないので、論理的で説得力のある見解を表明できないが、自由意志で選択できる企業や集団と混同できないものだと感じている。気に入らないなら国籍を捨てろ、他へ引っ越せというのは暴論である。国家や自治体は同じ目的を共有する者たちの共同体ではないし、為政者は慈愛あふれる保護者でもない。国は「国民の生命と財産を守る」義務を負っているからこそ、絶対的な権力で国民に法律の遵守や納税の義務を課すことを認められているのだと私は信じている。だから救出活動に人と金を使ったのは当然のことであって、費用を求めるなどということは論外のことだ。加えて、「生命と財産を守る」相手は、国民等しくであって、その思想信条や属性はもちろん国の政策に反対か賛成かによって異なるべきものではないと思う。助けを求められるから助ける、という性格のものでもないし、助けてあげるという擬人的な行為でもない。重ねて言うが、国は「国民の生命と財産を守る」義務を果たすと信じられているから国であり得るのではないのか。人質のために救出するのでなく、国が国であり続けるために救出活動を行う、そういう性格のものだと理解しているが違うだろうか。だとすれば「自己責任論」を語る政治家や政府高官は、何か大きな勘違いをしていないか。
●以上のことを前提に考えれば、国民全体に不利益をもたらすことが明確であるような特殊な場合を除き、個人が国の政策に沿わない行動をとることを非難したり禁止すべきではないと思う。今回のイラク問題のように国論を二分するような問題の場合はなおさらである。したがって、たとえ戦時下や紛争中の国や地域であっても、退避勧告が出ている場合であっても、個人がその判断で赴く自由を禁止すべきではないし、それが、人道的支援や報道目的によるものであれば、その勇気と決断には最低限の敬意を払うべきだと思う。


ここまで書きながら、問題は「国家とはなにか」という点に集約されることに気付いた。戦前の日本は「家」を拡大した集団として語られていたようだが、それは明らかに欧米の近代国家とは異質の性格を持っていたようだ。今回、国内で沸き起こった「自己責任論」に対し、欧米諸国から驚きと違和感が表明されたのも国というものに対する意識の違いがあるからかもしれない。欧米型の国家が唯一の国家形態だという前提を設けるつもりは毛頭ないが、政治家にはこうした次元の議論をして欲しいと思う。国家とはどのような存在なのか、何のために存在するのか、国民との関係はどうあるべきなのか、我々日本人が曖昧ななままにしてきた問題をわかりやすく説明して欲しい。その点を抜きにして憲法改正論議を進めるわけにも行かないのではないか。


余談だが、今回、空港にまで出かけていって「自業自得」などという個人批判のプラカードを掲げた人がいたのには驚いた。意図的な示唆行動なら別だが、そうでないならあまりにも幼稚で短絡的じゃないか。彼らは、いつも世の中が自分の味方だと思っているのだろうか。自分が少数派の立場に追い込まれた時「自業自得」の看板が自らに向けられる前例を今作っていることを自覚しているのだろうか。あと、政府高官が個人を批判し「責任」を求める発言にも驚いた。それはとてもアンフェアで非常識なことだという自覚はないのか。信じられない。


長くなってしまった。「正論」に同調しない書き込みは気を遣う。言葉尻をとらえて、感情的な批判が帰ってくるプレッシャーがある。「正論」の持つそういう圧迫感が息苦しい。しかし、黙っているのは自分らしくない。「長いものや声の大きさに負けるくらいならベンチャー経営者失格だぞ」と大げさに突っつく従順でない自分に負けた。