子供たちが中学や高校を卒業する年頃になり、「進路」について話しをする機会が増えた。夢がない、問題意識が低い、現実的なイメージを持っていない。ついつい「お父さんの若い頃は違った」なんて上から説教するような口調になる。
しかし、青年だった頃の自分を冷静に思い返してみると、問題意識だけは旺盛だったが、同じように世間知らずだったし、先のイメージを描きかねていた。そして、その後実際にたどってきた道のりも偶然に支配され、試行錯誤の繰り返しだったようなのだ。人生に計画的な意思を持ちこむこと自体、必ず意味のあることかどうか怪しくなってくる。
水場のそばまで行っても、水を飲むかどうかはその時点での意欲や好みの問題であり、結局人生はその連続に過ぎないかもしれないからだ。
ただ、ひとつだけ強く願うのは、喜怒哀楽の色の薄い退屈な人生に埋もれて欲しくないということ。外から平凡に見えるかどうかではなく、心のうちで確かな手応えを感じる日々を生きてほしい。何もしたくない、何も欲しくない、誰にも会いたくない、という鬱に囚われる人生はつらいだろうと思う。
今の社会、とりあえずは戦争や飢餓や貧困といったリアリズムから遠ざかり、子供たちはその社会からも隔離されている。意欲を持つことも、反発することも、目標を持つことも難しいに違いない。「求める」という意識の結果として「手応え」があるのだとすれば、子供たちの置かれている環境はつまらない人生をおくるためにあるようにさえ思えてくる。
そこでひとつ提案。子供たちがもっといろいろな実体験をできる、「現実の試体験」とでも言うべき機会を多く与えてみてはどうだろうか。教室を出て、いろいろな仕事の現場で、見学ではなく一定期間お手伝いをする。言葉による説教ではなく、物事の原因と結果を体で味わう。
例えば、高校生のバイク事故や暴走行為を減らすために行なわれている「免許を取らない、バイクを持たない、乗らない」という「3ない運動」。そのかわりに、校庭で実際にバイクに乗せ、転倒のショックや急ブレーキのパニックを経験させるというのはどうだろう。
少なくとも私の場合、安全運転や交通ルールの必要性は、自分がケガをした時の痛みや、事故の恐怖をとおして学んだ。生きていくことの大変さや自分という人間の自覚は一人暮しをしながらのプータロー生活の中で見つけた。経験をとおして「楽しさ」や「喜び」を感じて「意欲」が生まれることもあれば、逆に「痛み」や「苦しみ」の中でそこから逃れたいという「欲求」に動かされることもある。
わずか数十年前、私の両親達の世代はもじどおり「戦争と飢餓と貧困」の中で子供時代や青年時代をおくっていた。彼らの経験した現実が、彼らのパワーの源となり、その後の時代の活力となったと思う。かと言って「戦争と飢餓と貧困」の時代が良いはずはない。免疫力のない子供たちに過大な刺激を与えて、心身に壊滅的なダメージを生じさせては元も子もない。だから「ワクチン教育」。「現実」に触れることのプラスの面を生かすために、試体験の機会を増やしてはどうかと思うのだ。
人為的に仕組まれた人生経験、ある意味でこれはちょっと不自然なことかもしれない。しかし、歩く機会が減った大人達がスポーツジムに通うように、恵まれてしまった子供たちが「ワクチン教育」を受けることも認められてよいことなのではないか。無茶苦茶を承知で言えば、私は大学受験の受験資格として、1〜2年間の勤労経験を義務付けることさえ検討して欲しいと思う。
これらのこと、実は子供たちに限ったことではない。人間は40歳にして惑わず、なんてことはウソだ。いくつになっても生き生きとして生きていくために、つぶれない程度にいろいろな試行錯誤ができる「ワクチン」が用意されているような、フレキシブルで多様性に寛容な社会になって欲しいと思う。



