前回、「異常」を「正常」にできると書いたが、それは出来る限り予断や偏見にとらわれないで物事や人物を見るぞ、世の中の色メガネを少しでも透明にするぞというような意思を表明したつもりだった。


店舗数が増え、延べ利用人数も20万人近くになって、最近でこそ「旅籠屋」の説明に苦労しなくなったが、10年前、「鬼怒川店」を準備している頃は随分と情けない思いをした。日本ではモーテルというとラブホテルの代名詞になっているので「アメリカに無数にあるロードサイドの素泊まりのミニホテルです」と説明するのだが、彼の地のモーテルを利用したことのある人は稀で、言葉の端々に「そんなこと言っても、結局ラブホテルじゃないの。よしんば違うスタイルを目指しても結果的にラブホテルになってしまうんじゃないの」という疑念や警戒心が透けて見えた。出店用地を探そうにも不動産屋には相手にされず、旅館業法にもとずく営業許可申請を出した保健所では喧々諤々の論争になったりした。「『施行細則』や『通達』の枝葉末節を機械的に押し付けるのではなく、法律の趣旨にもとづいた判断をすべきじゃないですか」。信じられないかもしれないが、そこにはフロントカウンターの大きさまで書かれてあったりするのだ。冗談じゃない、そんなことは役所が決めることじゃない。「そもそも法律が想定していないスタイルの宿泊施設なので判断できないというのなら、県の保健衛生課であれ、中央の厚生省であれ、行くとこまで行って話しをしようじゃないですか」と声を荒げたりしたものだ。


しかし、そんな話しをしながら、私の中ではもうひとつ大声で叫びたくなることがあった。「しかしですねぇ。『旅籠屋』は該当しないにしても、そもそもラブホテルのどこがいけないんですか。防火や防犯について問題があるとすればその点を規制すればよいことで、SEXを目的に利用すること自体は何ら不自然なことではないし、それはプライベートなことじゃないですか」。公序良俗とか風紀とか、そういう「常識」に寄りかかり、当然のように押し付けようとする法律や役人の態度が我慢ならない


世の中の「常識」というものは、長い間に醸成された文化の一部だし、集団のアイデンティティを保つ合言葉のようなものだと思う。だから、単なる合理性だけで判断してはいけないし、一定の敬意を払う必要があるとも思う。だがそれは、時代の変化の中で必ず形骸化し、偽善という形で個人の行動や思考を束縛する。可能性を開く自由の頭を押さえつけ、リスクを承知で新しい価値を生み出そうとする勇気の足を引っ張って踏み絵を踏ませる。


人間、年を重ねて経験を積めば、必ず「常識」で重くなる。年長者の「常識」は、必ず若い世代の「非常識」を排撃しようとする。世の中、心地よい結論を先に決めておいて、「常識」を総動員してくどくどと説教するオトナが多い。間違いなく、私もそのうちのひとりだ。だからこそ、出来る限り、思考停止に陥らず、自覚的でいたい。そう自分に言い聞かせているというわけなのです。