ガソリンの値段がまた上がった。
そもそも30年以上も続いている「暫定」税率の現時点での必要性、無駄な道路づくりにつながらないための一般財源化の是非、などいろいろな主張があるようだ。とりあえず、何がベターなのか、よくわからない。
しかし、議論の中で聞こえてくる「地球温暖化防止のために、課税は継続強化すべきだ」という主張に、強い違和感を覚える。
「ガソリンなどの化石燃料を使うと、二酸化炭素の排出量が増える」
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「二酸化炭素の排出量が増えると、地球温暖化が進む」
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「だから、ガソリン税の維持強化による消費抑制には、合理性と正当性がある」という三段論法である。
こんな主張に、抵抗なくうなずいてしまう人が少なくないことにあきれてしまう。
こんな「もっともらしい正論」に飛びつくコメンテーターの幼稚さと思考停止に、「またか」と思う。
1970年代のオイルショックの頃にも、似たような議論があった。
当時は、狂乱物価と深刻な構造不況による高度成長の終焉という劇的な変化があり、経済的な面での緊急性があったが、
同時に、「省エネ」と「大気汚染防止」というスローガンが声高に叫ばれ、マイカーが「悪者扱い」にされた。
テレビの深夜放送中止、ネオンサインの消灯、そして自動車レースの自粛である。
大気汚染や無秩序な開発による環境破壊を正当化するつもりなど、もちろんない。
日本を含む先進国に住む我々の「快適な生活」が、有限な化石燃料や天然資源に支えられ、これが「公平かつ適正に」使われていないことへの問題意識も、当然ある。
人為的な要因によって、「急激に」地球温暖化が進行していることへの危機感も共有している。
かつて私は、「循環型社会」を日本で初めて提唱したコンサル会社に勤め、有害廃棄物の適正処理や、可燃ゴミ廃棄物の資源化プロジェクトに取り組んでいたのだから、無関心であるわけがない。
そもそも、一面的な「正論」の尻馬に乗り、勧善懲悪というか、誰かを悪者にして済む問題ではない。
だが、ここで論じたいのはそんなことではない。 感じている違和感は、少し次元の異なることだ。
先日、メディアの人に、こんな質問をされた。
「石油価格が高騰しています。地球温暖化防止の問題もあります。長い目で見て、マイカー使用を前提としたロードサイドビジネスの将来性や社会性について、どう思いますか?」
事業の収益性とか、店舗の拡大計画とか、株式公開の見通しとか、そんな取材が多いなかで、これは良い質問である。
当然なされるべき質問である。
その時、私が感じ、考え、答えたのは以下のようなことである。
一般の個人がマイカーを持ち、利用できるようになったのは、ここ2〜30年のことです。
その最大の意味は、誰もがいつでも行きたいところに行ける「個人の自由」を獲得したということです。
これは、有史以来数千年をかけてようやく人類が手にした「自由」です。
おそらくは、車の絶大な利便性や経済的な波及効果が、やむなく、図らずも為政者に認めさせた「個人の自由」です。
その価値は、環境問題や目先の経済的合理性を相手に秤にかけられ、二者択一を迫られるようなことではありません。
次元の異なることであり、手放してはならない貴重なことであり、はるかに本質的で重たいことです。
オイルショックの時、いくつかのルール変更や配慮はあったものの、ヨーロッパではF1レースは当然のように続けられました。
ライトアップが全面的に消されたという話しも聞きませんでした。
かつて、第二次大戦の中でも続けれらたクラシックコンサートを尊ぶ映画が作られ、共感を得ています。
そこには、人間の尊厳や人類の文化というものに対する長い歴史に培われた揺るぎない価値観というものがあります。
これから先、車に限っても、代替燃料の開発、電気自動車や燃料電池自動車の開発など、資源の節約、省エネルギーなど環境負荷を低くする動きは当然進められるでしょうし、進められなければなりません。
しかし、かつての日本のように、「車の使用は、軍用や商用を優先とし、レジャーのためのマイカー利用は自粛すべし」などという、「正論」や「世論」や「指導」に安易に乗っかるべきではありません。
短絡的な「二者択一」の罠にはまる必要はありません。
車社会、モータリーゼイションという言葉が語られるとき、日本では産業の発展とか、利便性とか、そういう面ばかりが語られる。
もっと本質的なことに気づくべきじゃないか、ヒステリックな目先の批判に動じることなく、本質的な価値を掲げるべきではないか。
「シンプルで自由な、旅と暮らしをサポートする」というのは、そういうことなのだと、私は言いたいわけなのです。



