先日、パリで悲惨なテロ事件が起きた。一般市民が無差別に標的になった。ひどい話だ。


フランスへの連帯とテロを許さないという意思表示のために、facebookでは三色旗を自分のプロフィール写真に重ねる人も少なくなかったが、私は同調する気持になれなかった。
テロの犠牲者は今回に限ったことではなく、ロシアの航空機でもトルコでもレバノンでもエジプトでも各地で頻繁に起こっており、フランスだけを特別扱いをするのはおかしなことだ。
そしてもうひとつ、あのテロを実行した人たちはいたずら半分の愉快犯ではなく、命を賭した示唆活動を実行したのであって、そこには彼らなりの強い怒りがあったと考えるからだ。
似たようなことは、14年前にも感じたことだ。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件である。
あの時、世界中の人々が驚きアメリカに同情したものだが、私はアメリカがこれほどまでに憎まれ恨みを買っていることが容易に想像できた。


誤解されないように断言しておくが、私はアルカイダやISの肩を持つつもりはないし、テロを肯定するつもりもない。
しかし、19世紀以降、先進国が自国の利益のために「自由」「正義」「博愛」などというもっともらしい美名を掲げながら世界中で繰り返してきた蛮行を知っている。だから、テロの問題は、やくざの出入りのように、お互いが暴力で報復を繰り返したり、神に祈るだけで解決する問題だとは到底思えない。


ところで、数年前から、政財界のトップが「グローバル経済の中で少子高齢化の日本が生き延びていくためには、人間の鎖国を解き、海外からの労働力を広く受け入れるべきだ」発言することが増えている。私はこれに強い違和感を感じる。


海外を旅行していると、3K(きつい、汚い、危険)の仕事に移民らしき人たちが多いのに気づく。ホテルの廊下ですれ違うルームメイクの人たちも同じだ。気持ちがざらつく。申し訳ないような気がしてくる。
安い労働力を得るために、経済的に困窮する人たちを迎え入れる、そんな社会が健全だとは思えない。「平和で民主的な世界にようこそ、努力して同化すれば、すばらしい未来が待っていますよ」と言う人もいるのかもしれないが、私が感じるのは、欺瞞と偽善だ。伏目がちに働く人たちの鬱屈した感情、屈辱感や絶望に気づかないふりをするわけにはいかない。


私は個人の自由を何より大切にしたい。そのために、ひとりひとりの多様性を尊重しなければならないと考えてきた。日本社会は本質的に閉鎖的な村社会なので、「普通」から外れると生きにくい。そうした閉鎖性を緩めて、ひとりひとりが胸を張って自立して生きていけるようにしたい、旅籠屋はそうした願いの中で生まれたのだし、そのこだわりを頑なに守り、反映してきた。


しかし、あらゆる個性や違いがフラットに同居するような社会が望ましいとはけっして思ってはいない。日本人としてのアイデンティティや帰属意識を維持できないような社会に長期間暮らし、その一員になりたいとは思わない。
つまり、風俗・習慣・文化などを共有する人たちがマジョリティとして存在する世の中があり、これに属さない人々は排除されたり不当に差別されることはないけれど、そのマジョリティのルールを尊重する範囲内でマイノリティとして受け入れられている社会、それが私の暮らしたい社会である。だから、私は大量の移民受け入れには賛成できない。


付き合いの長い友人に話すと、そんな保守的な意見は私らしくないと言われる。でも、偽善的な「良識派」になりたいと思ったことはない。


フランスもドイツもイギリスも、自国の利益のために北アフリカや中近東やインドなどからたくさんの移民を受け入れてきた。短期的には経済的なメリットがあり、活力を生んできたかもしれないが、それは格差を固定させ、その割合が一定限度を超えると文化的な摩擦が噴出する。今はそんな段階なのだと思う。


旅籠屋は、予断・偏見・先入観にとらわれずお客様を受け入れることを何よりも大切にしてきた。
社内においても、学歴・職歴・国籍・宗教などにとらわれず社員を雇用してきた。LGBTの人も同様である。
しかし、基本は日本人の、日本人による、日本人のための宿であり、会社であると考えており、それで良いと考えている。海外からの旅行者への集客をしないこと、海外進出を考えていないこと、その理由はここにある。


その意味で、私は、グローバリゼーションには懐疑的だし、TPPの前提にも賛成できない。他の文化に生きる人たちの社会に西欧社会や先進国の正義を振りかざして介入することには反対である。世界はまだら模様でよいではないか。正義はけっしてひとつではない。