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バックナンバー

2004年
2004.1/21 人間は、みんな「異常」
2004.1/27 「常識人」の偽善
2004.5/4 ゴールデンウィーク
2004.5/6 「正論」には同調しない
2004.5/7 「旅籠屋日記」の削除について
2004.5/10 思案中
2004.5/12 「旅籠屋日記」に関する考え方と今後の方針
2004.7/31 感動した
2004.8/22 埋められない穴
2004.12/3 アメリカMOTEL視察

2004年1月21日 人間は、みんな「異常」

私は、テレビのワイドショーのレポーターが嫌いだ。何か事件があると、近所の人から「おとなしい、いい人だったんですけどねぇ」などというコメントをとって、「何が、彼を異常な犯罪者に変えたのでしょう」なんて、自分たちとは異質の人間のように言う。冗談じゃない。そもそも「正常な人」なんていない、つーの 。ワイドショー正義感が多くの人を思考停止にし、世の中を悪くしていると、本気で信じているくらいだ。

私は、これまで、多少の逸脱はあったにせよ、基本的に普通の場所で、平凡に生きてきたと思っている。周囲の目を気にする、臆病な小市民のひとりだ。少しだけ平均値と違うとすれば、わがままで、自分勝手で、こらえ性がないから、「俺はこうしたいんだ。なぜ思い通りにならないんだ。世の中の方がおかしいんじゃないか」といつまでも駄々をこねるというところぐらいか。そんな、「平凡な私」でも、出会ってきた人間たちは、自分自身を含めて、それはそれはいろんな人がいたし、いろんな面を見せられてきた。

前にも書いたが、スポーツ選手であれ、ミュージシャンであれ、政治家であれ、個人の人間力をベースに大衆を相手に事をなす人というのは、「異常な」負けず嫌いであり、「異常な」自信家である、私はそう思っている。「平凡な」サラリーマンや主婦であっても、ねたみや嫉妬の炎を燃やしたり、退屈な日常や未来から逃げ出そうと「自分でも驚くような妄想」にふけることは珍しくないと思う。陳腐な言い方になるが、「正常」と「異常」は連続しており、誰の心の世界も、驚くほど広く、深く、、そして暗い。平凡に生きてきた私が、なぜこういうことを断定的に言えるのか、と自分でも不思議なのだが、それは子供の頃、今でも信じられないような激しい姑を見ながら育ったせいかもしれない。

サラリーマンの時はラクだった。イヤイヤでも、毎朝目覚ましがなって規則正しく一日が始まり、会社には自分の席と仕事が用意され、とりあえず利害を共有する見知った顔が並んでいた。良くも悪くも結果が出て、ボーナスや昇進で評価が確認できる。屋内競技場のようなもので、叫んだ声は必ず誰かの耳に届き、こだまして返ってくる。あらかじめ線の引かれた走路があり、それは閉じている。もちろん、家に帰っても同じこと。夫やお父さんという立場と義務があり、不自由だがやるべきことは「常識」が教えてくれた。

屋外は違う。一人暮らしの学生時代はそうだったかもしれない。もっと自由だったが、孤独で、どうしてよいかわからなかった。ノイローゼになりかけた。会社勤めを辞めてからも、少し似たような状況があった。

自殺する人が多いらしい。精神を病む人も多い。「異常な」犯罪も増えているという。でも、本来、人間は何でもできる。どんな「異常」な人間にもなれる。「正常」に生きているのは、たまたまそういう環境に身を置いている、置かされているからに過ぎない。そのことに気づいていないらしい人が多いのは、考えたらそれこそ何より「異常な」ことだ。養老さんの言う「死」と似た面があるかもしれない。だから、私は用心深いし、臆病だからこそほんの少しは「異常」を「正常」にできる人間だと思っている。新年早々、へんな日記になったな。

2004年1月27日 「常識人」の偽善

前回、「異常」を「正常」にできると書いたが、それは出来る限り予断や偏見にとらわれないで物事や人物を見るぞ、世の中の色メガネを少しでも透明にするぞというような意思を表明したつもりだった。

店舗数が増え、延べ利用人数も20万人近くになって、最近でこそ「旅籠屋」の説明に苦労しなくなったが、10年前、「鬼怒川店」を準備している頃は随分と情けない思いをした。日本ではモーテルというとラブホテルの代名詞になっているので「アメリカに無数にあるロードサイドの素泊まりのミニホテルです」と説明するのだが、彼の地のモーテルを利用したことのある人は稀で、言葉の端々に「そんなこと言っても、結局ラブホテルじゃないの。よしんば違うスタイルを目指しても結果的にラブホテルになってしまうんじゃないの」という疑念や警戒心が透けて見えた。出店用地を探そうにも不動産屋には相手にされず、旅館業法にもとずく営業許可申請を出した保健所では喧々諤々の論争になったりした。「『施行細則』や『通達』の枝葉末節を機械的に押し付けるのではなく、法律の趣旨にもとづいた判断をすべきじゃないですか」。信じられないかもしれないが、そこにはフロントカウンターの大きさまで書かれてあったりするのだ。冗談じゃない、そんなことは役所が決めることじゃない。「そもそも法律が想定していないスタイルの宿泊施設なので判断できないというのなら、県の保健衛生課であれ、中央の厚生省であれ、行くとこまで行って話しをしようじゃないですか」と声を荒げたりしたものだ。

しかし、そんな話しをしながら、私の中ではもうひとつ大声で叫びたくなることがあった。「しかしですねぇ。『旅籠屋』は該当しないにしても、そもそもラブホテルのどこがいけないんですか。防火や防犯について問題があるとすればその点を規制すればよいことで、SEXを目的に利用すること自体は何ら不自然なことではないし、それはプライベートなことじゃないですか」。公序良俗とか風紀とか、そういう「常識」に寄りかかり、当然のように押し付けようとする法律や役人の態度が我慢ならない

世の中の「常識」というものは、長い間に醸成された文化の一部だし、集団のアイデンティティを保つ合言葉のようなものだと思う。だから、単なる合理性だけで判断してはいけないし、一定の敬意を払う必要があるとも思う。だがそれは、時代の変化の中で必ず形骸化し、偽善という形で個人の行動や思考を束縛する。可能性を開く自由の頭を押さえつけ、リスクを承知で新しい価値を生み出そうとする勇気の足を引っ張って踏み絵を踏ませる。

人間、年を重ねて経験を積めば、必ず「常識」で重くなる。年長者の「常識」は、必ず若い世代の「非常識」を排撃しようとする。世の中、心地よい結論を先に決めておいて、「常識」を総動員してくどくどと説教するオトナが多い。間違いなく、私もそのうちのひとりだ。だからこそ、出来る限り、思考停止に陥らず、自覚的でいたい。そう自分に言い聞かせているというわけなのです。

2004年5月4日 ゴールデンウィーク

随分と間が空いてしまった。去年の暮れから「戦略経営者」という雑誌に駄文を連載しており、表現エネルギーを消費してしまっている影響もあるが、私生活の面でも「アレもコレも、やらなくちゃ」という気持ちが大きくなって、ゆっくりと文章を書く気持ちのゆとりがない。日記を書くよりも、読みたい本を読んだり、買ったままになっているパソコンソフトを使えるようにしたり、ハモニカの練習をしたり、そういうプレッシャーが強い。でもやっぱり、仕事のことが頭から離れないのが最大の理由だ。

10日ほど前に1年半ぶりの新店がオープンした。7月オープン予定の店も順調に建築が進んでいる。その後の出店計画も具体化しつつある。10店舗になるのも遠くないだろう。
しかし、店舗が増えれば心配の種も増えるわけで、このゴールデンウィーク期間中も、各店の状況が気になって落ち着かない。さきほど、ようやくGW最後のチェックインが確認できて、ようやく心に平穏が訪れた。久しぶりに「日記」を書く気分になったというわけだ。

5月1日から4日間、ありがたいことに全店満室になった。早くから予約で満室になっていた店も多いが、実際はキャンセルによる入れ替わりが多く、中には予約しながら現れない「No Show」もあって、当日チェックインを終えてしまわないと安心できない。最後のお客様を迎えて、ようやくホッとしている支配人の気持ちが伝わってくる。満室が続くと客室の掃除も肉体的にたいへんだが、それ以上に頻繁に起こる予約変更への対応やNo Showやオーバーブッキング発生の不安に対する精神的プレッシャーは経験したものでないとわからない。その意味で、各支配人には「ほんとうにお疲れ様でした」と心から言いたくなる。「任されている」というのは良い面もあるが、他に頼れないという重圧もある。何と言っても旅籠屋を支えているのは支配人の責任感と忍耐力。とにかく、素直に感謝。あした掃除が終わったら、ゆっくり一服してください。

この2月、延ばし延ばしにしていた健康診断をついに受けた。10数年ぶりのこと。一部再検査を受けたりもしたが、深刻な異常はないようでほんとうにホッとした。ストレスや運動不足による生活習慣病の兆候はあるらしいので、GWは意を決して毎日プールに通って泳いでいる。あしたはいよいよ最終日。心身ともに健康でいることが私の最大の務めなのだ。

ほんとうは、前から書きたいことがあったが、重たいテーマなのでそれは今度。今夜は、束の間の「充足感」にひたっていよう。

2004年5月6日 「正論」には同調しない

イラクで拘束されていた日本人が解放されて半月が過ぎた。ワイドショー番組が嫌いなので、家族たちの当初の言動を見聞きしていないが、その後にわき起こった異様な「世論」の盛り上がりや政府高官の発言には強い違和感を感じた。前もって言っておこう。私はこういう「世論」に組しないし、「自己責任論」にも賛成しかねる。

国の方針に反した行動をとるなんて自由の履き違えで、自分勝手だ。再三の退避勧告を無視して入国したのだから自業自得だ。自衛隊撤退の交渉の材料にされ、結果として国全体を難しい立場に追い込んだくせに、「残りたい」とか「また行きたい」なんて非常識だ。「戦争中」の国に行ってボランティアなんて、そもそも考えが甘いのではないか。世間知らずの未成年のくせにこんな行動をとるなんて親のしつけがなってないのではないか。助けて欲しいという気持ちはわかるが、声高に政府の方針を批判する家族の発言は自分勝手だ。自由には責任がともなう、救出にかかった費用は、当然負担すべきだ。・・・「自己責任」を強調する「世論」の大筋はこんなところか。

こうした発言の多くは、ちょっと聞くと道理にかなったことのように聞こえるし、当人は常識をわきまえた良識人としての心地よさを感じているだろう。しかし、
「常識」にもたれかかったような「正論」は、疑ってみる必要がある自分が彼らの立場だったら、自分の家族だったら、彼らが政府の職員だったら、有名企業の社員だったら、医療援助のスタッフだったら、・・・など、要素をいろいろと置き換えてみると感じることが違ってくる。もしかしたら、多数派に同化しようとする事なかれ主義、自分を棚に上げて人を批判する偽善、多数派に迎合しない頑固者を「村八分」にする卑劣な自己保身、そういう無意識が隠れているかもしれない。感覚的に「心地よい」結論に逃げ込む前に、根拠のない先入観や偏見にとらわれて自分の感覚が汚染されていないか、まず自覚的に心の中をチェックしてみる必要があると思う。それは例えば、以下のようなことだ。

●独自に活動しているNGOメンバーやフリージャーナリストを不可解な人種と考え、
公職にある人よりも信用できないと思い込んでいないか。
●大きな組織の判断や行動は誤りが少なく、その命令に従って行動している人間は正しい。組織に頼らず
個人の自由意志で行動している人は思慮が足りず身勝手だと決め付けていないか。女性や未成年者を自立した人間ではないと蔑視していないか。
●外国とのつきあいは政府や企業など、広く認知された組織の人間が「責任」を持って行うべきことで、
個人や任意の民間団体がしゃしゃり出るべきことではない、と断じていないか。
●政府や企業が行えないこと、行おうとしないことを行い、隠していることを正せるのは一体誰なのか。利害に影響されない純粋な人道的な支援や、人間同士の交流や情報交換を行うことは
非難されるべきことなのか
●国を「家庭」の延長のようにみなしていないか。国家と国民の関係を、任意の契約によって成立している組織と個人の関係に置き換えて
混同していないか
●国家の最大の義務は国民の生命と財産を守ることだが、
国策に沿わない人間はその対象から除外してよいと解釈していないか。為政者に都合のよい選択権を与えてよいのか。
●少数意見の尊重という理念が、なぜ民主主義の本質のひとつであるとされるのか、その
経緯や歴史の教訓を忘れていないか

私も、知らず知らずのうちに偏見と先入観に染まっている人間である。だから、上に挙げたことの多くは、私自身の心の中にある意識でもある。周囲の多くの人が似たような意識を持っているなら、それに同調して「みんなが言ってること、無理ないよねぇ」と認めて「常識」や「良識」に埋もれてしまいたい誘惑も感じる。
私はNGOで活動している人たちと直接の面識がない。だから、中には信用の置けない「にわか人道主義者」や、自分勝手な「偽善者」や、思慮の浅い「世間知らず」がいる可能性を否定しない。同時に、周囲の反対に負けず、安穏な生活を犠牲にして信念を貫こうとする志や勇気を持つ人達がいることも否定できない。今回の事件に巻き込まれた人達がそのどちらかはわからない。しかし、
それはどちらでも良いことだ

私が考えたのは次のようなことだ。

●自分と異なる言動を実行する人の存在は愉快ではない。まして、その結果が少しでも自分に影響を与えるとしたら、その言動を封殺したくなる。しかし、自分が逆の立場に立つことだってある。正しいと思って行動しているのに多くの人から理解されないこともある。偏見や誤解を受け、数を頼んだ脅迫的な批判にさらされることもあるかもしれない。自分だけならともかく、関係のない家族や友人知人までが偏見を持って白眼視されるかもしれない。プライバシーが暴かれ、さらし者にされるかもしれない。だから、他人を批判するには、正確な情報にもとづく理解や冷静な議論が必要である。その機会を確保するために、たとえ非常識に思える意見であっても、その表現と行動の自由は最大限保障されるべきだ。圧倒的多数が少数を押さえつける状況は、取り返しのつかない先例を認めることになる。
●儒教の影響かもしれないが、日本人には独特の集団帰属意識があり、個人を犠牲にして集団の利益に従うことを美化する傾向がある。しかし、組織というものは矛盾を孕んだ存在であり、権威や権力は一人歩きして必ず誤りを犯す。組織の規律や意思決定システムは尊重すべきだが、個人の異議申し立てや逸脱した言動の余地を残すことは絶対に必要である。組織や集団に従う犠牲的精神は密かに抱くべきものであって、強要すべきものではない。
●我々は自由意志によって国と任意の契約を結んで国民でいるわけではないし、町や村の住民であるわけでもない。国家や共同体についての素養がないので、論理的で説得力のある見解を表明できないが、自由意志で選択できる企業や集団と混同できないものだと感じている。気に入らないなら国籍を捨てろ、他へ引っ越せというのは暴論である。国家や自治体は同じ目的を共有する者たちの共同体ではないし、為政者は慈愛あふれる保護者でもない。国は「国民の生命と財産を守る」義務を負っているからこそ、絶対的な権力で国民に法律の遵守や納税の義務を課すことを認められているのだと私は信じている。だから救出活動に人と金を使ったのは当然のことであって、費用を求めるなどということは論外のことだ。加えて、「生命と財産を守る」相手は、国民等しくであって、その思想信条や属性はもちろん国の政策に反対か賛成かによって異なるべきものではないと思う。助けを求められるから助ける、という性格のものでもないし、助けてあげるという擬人的な行為でもない。重ねて言うが、国は「国民の生命と財産を守る」義務を果たすと信じられているから国であり得るのではないのか。人質のために救出するのでなく、国が国であり続けるために救出活動を行う、そういう性格のものだと理解しているが違うだろうか。だとすれば「自己責任論」を語る政治家や政府高官は、何か大きな勘違いをしていないか。
●以上のことを前提に考えれば、国民全体に不利益をもたらすことが明確であるような特殊な場合を除き、個人が国の政策に沿わない行動をとることを非難したり禁止すべきではないと思う。今回のイラク問題のように国論を二分するような問題の場合はなおさらである。したがって、たとえ戦時下や紛争中の国や地域であっても、退避勧告が出ている場合であっても、個人がその判断で赴く自由を禁止すべきではないし、それが、人道的支援や報道目的によるものであれば、その勇気と決断には最低限の敬意を払うべきだと思う。

ここまで書きながら、問題は
「国家とはなにか」という点に集約されることに気付いた。戦前の日本は「家」を拡大した集団として語られていたようだが、それは明らかに欧米の近代国家とは異質の性格を持っていたようだ。今回、国内で沸き起こった「自己責任論」に対し、欧米諸国から驚きと違和感が表明されたのも国というものに対する意識の違いがあるからかもしれない。欧米型の国家が唯一の国家形態だという前提を設けるつもりは毛頭ないが、政治家にはこうした次元の議論をして欲しいと思う。国家とはどのような存在なのか、何のために存在するのか、国民との関係はどうあるべきなのか、我々日本人が曖昧ななままにしてきた問題をわかりやすく説明して欲しい。その点を抜きにして憲法改正論議を進めるわけにも行かないのではないか。

余談だが、今回、空港にまで出かけていって「自業自得」などという個人批判のプラカードを掲げた人がいたのには驚いた。意図的な示唆行動なら別だが、そうでないならあまりにも幼稚で短絡的じゃないか。彼らは、いつも世の中が自分の味方だと思っているのだろうか。
自分が少数派の立場に追い込まれた時「自業自得」の看板が自らに向けられる前例を今作っていることを自覚しているのだろうか。あと、政府高官が個人を批判し「責任」を求める発言にも驚いた。それはとてもアンフェアで非常識なことだという自覚はないのか。信じられない。

長くなってしまった。「正論」に同調しない書き込みは気を遣う。言葉尻をとらえて、感情的な批判が帰ってくるプレッシャーがある。「正論」の持つそういう圧迫感が息苦しい。しかし、黙っているのは自分らしくない。「長いものや声の大きさに負けるくらいならベンチャー経営者失格だぞ」と大げさに突っつく従順でない自分に負けた。

2004年5月7日 「旅籠屋日記」の削除について

昨日の書き込みに関して、株主の方々からのいくつかの厳しい批判を目にした。
感情的な反論はともかくとして、「会社のホームページなのだから、業務に関係のない個人的な思想信条や社会的、宗教的、政治的な話題を載せるべきではない。公私混同ではないか」という指摘については、私自身がかねてより気にしていたことでもあり、真摯に受け止め、自分の考えをまとめてみるべきだと思った。

本来言う必要のないことであることを承知で初めにことわっておくが、私は政治党派や宗教に属したことはなく、特定の政治イデオロギーを信奉しているわけでもない。あくまで、個人として日々感じ考えたことを書き連ねているだけである。昨日の書き込みも、政治的な主張をするつもりはなく、「常識」にもたれかかって「正論」を振りかざすような思考のあり方や感性に反発を感じ、この気持ちを表明したいというのが主旨だった。この日記の以前からの「読者」なら感じてもらえると思うが、私は結果としての主義主張の違いではなく、その過程で「偏見や先入観や表面的な規則や多数派の常識」にこだわって新しいもの、変わったものを排撃しようとする人たちの思考停止に逃げ込む体質に異議をとなえてきた。それは、「ロードサイドホテル」という先例のないビジネスを産み育てる中で味わってきた情けない思い、やり場のない怒りをぶつけたかったからだし、書くことで挑戦し続ける自分の思いを再確認する原動力にもしてきた。
結論が違うのはよい。ただ、感覚や感情ではなく本質的なレベルに踏み込んで議論する姿勢を共有したい、そういう思いを繰り返し言ってきたつもりだ。何か政治的な目的や魂胆があったわけではまったくない。単に私がそういうことに無性に腹の立つ人間で、黙っていられなくなる性格だった、それだけのことだ。実際、拘束された人たち自体を直接非難も擁護もしていないし、自衛隊派遣の賛否にも触れていない。とりあえず私の言いたいことはその点にはないからだ。

「旅籠屋日記」は7年前、このホームページ開設と同時にスタートさせた。当時は、たった1軒だけの小さな宿(「鬼怒川店」)のオヤジで、住み込んでいるのは私一人。「こういう事業を始めた自分という人間の心情を吐露したい。どこかの誰かと微かにでも接点を持っていたい。聞いて欲しい。」という「公開日記」というような感じだった。ところが、グリーンシートに登録して株主が増え、事業も少しずつ拡大した頃から、「個人的な思い」をこの場に載せることに、私自身迷いや懸念が生じてきた。実際、外部から批判を受けたこともある。
だが、「日記と書き、独り言としている以上、これを会社の公式見解と受け取る無粋な人はいないだろう」と深刻には考えなかったし、「自己規制せず本音を書いて欲しい」という声もあって、なんとなくこの状況を変更しないできた。

しかし、今回指摘されて考えたことだが、仮にどこかの企業の社長個人の「日記」が公開されていて、その中で「勧告を無視してイラクに行くような人間は非国民だ」というような断定的な書き込みを見たら、少なくとも私はその企業の商品を買いたくなくなるかもしれないと思った。その企業が大規模な会社で社長がたんなるサラリーマン社長と思える存在だったら、会社と所長個人は別と納得しやすいが、彼が創業社長で彼の個性がその企業のカラーを体現しているような場合、間接的にでもその社長個人を利するようなことはしたくないと感じるだろうと思った。これは、その「日記」が会社のサイトとは別の個人サイトにあったとしても、おそらく大差ない。

ひるがえって、旅籠屋の場合どうだろう。後者であることは自他ともに認めるところだ。とすれば、私の言動は会社の印象に大きな影響を与えるに違いない。理屈はともかく感情的にはそうだ。重ねて言うが、私は既成の価値観に盲従しない姿勢というものを訴えたかったのだが、具体的な社会現象や事例をあげて語らざるを得ない限り、社会性や政治性から完全に逃れることはできないし、冷静に主旨を読み取ってくれる人たちばかりとは限らない。

とすれば、「旅籠屋日記」は閉鎖してしまうしかないように思う。会社のサイトはもちろん、私が「旅籠屋」という会社と関連して見られる限り、個人サイトにおいても「個人的意見」を述べることはやめたほうが良いように思う。

思い返してみれば、私がこの事業を構想し具体化しようとした動機は、「お仕着せを受け入れるのではなく、自分なりの価値観で旅や人生を選んでいくような世の中になって欲しい。そうすれば、日本はもっと自由で生きやすい国になるに違いない」という思いだった。「シンプルで自由な、旅と暮らしをサポートする」という創業理念にこめた願いはそういうものだったし、「旅籠屋」が増えることはその物理的な基盤と感受性を醸成することになると信じてきた。それは、今でも変わらない。既存の価値観への反発は、「旅籠屋」の事業を推進するエネルギーであった。私にとって「旅籠屋日記」への書き込みは「旅籠屋」の事業そのものの理念に通じていることをあらためて自覚した。

当たり障りのないことを書けばよい、という意見もある。少し考えてみたが、きっと当たり障りのないことなど、あえて書く気は起きないと思う。個人サイトに書けばよい、という意見もある。しかし、それは上に書いたとおり、形式的には良くても、実質的には私がリタイヤしない限り、似たりよったりのことだと思う。
「とても代表取締役として信任できない」と言われ、「会社のホームページの乗っ取り」「私物化」と決め付けられる。情けない。こうして、創業者は会社の成長にあわせて口を封じられ、邪魔者扱いされていくのか。「業績に悪影響を与える」という「正論」の前で、企業は利益以外の存在価値や社会的存在を積極的に語れなくなっていくのか。こうしていつのまにか会社は無色透明になり、人畜無害になっていくのか。コンセプトを語らない「旅籠屋」って何なのか。・・・正直言って、そういう感情もある。

しかし、今や旅籠屋という会社の利害関係者は数多い。5年前、公募増資に応じた株主の人たちに報いたいとずっと考えてきた。苦々しい思いで「旅籠屋日記」を読んでいる従業員もいるはずだ。両極端を選ぶことが解決策ではないのだろう。バランスの取れる場所があるかもしれない、しばらく多くの人の意見を聞き、自分自身の心の中をのぞいて考えてみようと思う。

正直言って、迷い悩んでいます。どうぞ、率直なご意見をお聞かせください。直接、私宛のメールでお願いします。
それまでの期間、経緯を理解してもらうためにも「旅籠屋日記」はこのまま公開しておきます。

2004年5月10日 思案中

前回の書き込みのあと、十数通のメールをいただいた。批判、助言、内容はさまざまだが、率直な気持ちのこもったものばかりで、ほんとうにありがたい。他の掲示板に寄せられている意見も「旅籠屋」を気にかけていただいてるからこそのものである。心から感謝している。ネットを使ったコミュニケーションの世界に出会ってもう10年を越えたが、必ずしも愉快なことばかりではなかった。しかし、このように多くの方と気持ちよく意見交換できるのは幸せなことだ。この場を借りて深くお礼を申し上げます。

さて今回提起された問題について、あまり時間をかけずに判断し、改めるべき点は改めていかなければならない。具体的には、
●5/6の書き込みを削除するかどうか。
●この「旅籠屋日記」そのものを削除する、あるいは私個人のサイトを作ってそちらに移動させるかどうか。
●「旅籠屋日記」というタイトルを変更するかどうか。
●「旅籠屋の主人」というパソコン通信の頃からのハンドルネームをやめるかどうか。
などの点について、結論を出さなければならない。しかし、その判断を下すためには、先例や通例にこだわらず以下のような問題について考えなければならない。
●会社と経営者個人の関係
●狭い意味での経済活動を超えて会社のカラーや意思表示をすることの是非
●立場や目的を異にする利害関係者(お客様、株主、経営者、社員、取引先など)の関係
●会社の発展(グリーンシートへの登録、公開市場への上場など)によって、おのずと考え方を変えていくべきなのかどうか

寄せられた貴重な意見を参考にしながら、以上のような問題を思案している最中だが、連日の睡眠不足もあり、いま少しの時間をかけて結論を出したいと考えている。

ところで、さまざまな意見に触れながら、感じたのは、やはり私の言わんとしたことがそのとおり伝わっていないこと、ポイントのずれた指摘が少なくないことだ。
例えば、私はイラク問題を取り上げてはいるが、言いたかったことは政治的なことではなかったし、いわんやイデオロギーなどとは無縁のことだった。語弊を恐れずに言うが、多くの人の感受性の中に一種の「アレルギー」のようなものがあるのかもしれないということを強く感じた。
「国は等しく国民の生命と財産を守る義務を果たすとから国であり得るのではないか。とすれば自己責任論は大きな勘違いではないか・・・そのことの是非はともかく、感情的な好き嫌いではないそういうレベルでの本質的な議論が必要ではないか。」というのが、私の主旨だったのだが、これに正面から応えていただいたメールは1通だけだった。

高校生だった頃、世の中に対して批判的なことを言うと、父から「子供のくせに生意気言うな。国があるおかげで、生きていられるんだ。オマエはアカか!」などといきなり怒鳴りつけられて、それ以上は、何も言えなくなるような経験をよくした。その時に感じたある種の情けない気持ちを今回もかすかに感じてしまった。

多くの人の中には、社会問題について真剣な議論をすることに対する警戒心というか、嫌悪感というか、ある種の「生理的なアレルギー」というようなものがあるのかもしれない。異常に身構えて、感情を高ぶらせてしまうような感じ。天下国家を論じることは、本来、恐ろしいことでも、畏れ多いことでも、常軌を逸したことでも、やばいことでもないはずなのに、みんな何かタブーだと感じているみたい。だから、日本人は口論はできても創造的な議論ができず、論理的な思考が苦手なままで、新しい異質なものを理解して受け入れるのに消極的。私はそういうことにいらだっているわけだが、アレルギーはおそらく無意識の感覚なので、「思考停止、偽善、事なかれ主義、自己保身」などと叫んでも反発を買う結果にしかならないのかもしれないという気がしてきた。
私は、タブーなしに議論することが当然のことだった時代の洗礼を受けたが、そういう感性を持つ人間はとても少数派なのかもしれない。「国家とは何か」なんて話しは、教師はもちろん、友人ともしたことのない人が圧倒的に多いのかもしれない。そういえば、許認可をもらう役所で、「法律の目的に立ち返って話しをしましょう」なんて噛み付くと、役所中の人が驚いた顔をして静まり返る。残念ながら、そういうことなのかもしれない。

もしそうだとしたら、それはとても由々しきことだが、私の書き込みが独りよがりだという批判も理解できないではない。逆効果を招く無理押しをしていたのも言えるからだ。
こんな書き方をすると「尊大な言い方をするな!」と叱られてしまいそうだが、これはアレコレ考える中での私なりの反省のひとつ。自分の言いたいことを正直に言ったつもりでも、多くの人に誤解されてしまうのであれば、言い方を変える必要があるのかも。そういう点を含め思案中である。

2004年5月12日 「旅籠屋日記」に関する考え方と今後の方針

過去1週間の書き込みにあるとおり、この「旅籠屋日記」の性格付けと書き込み内容について、株主の方から重要な問題提起をいただいた。直接いただいたメールおよび社内での意見交換を踏まえ、私の見解と今後の方針を説明させていただきたい。

■提起された問題の主旨と、これに対する基本的見解
提起された問題の主旨 これに対する基本的見解
個人と法人を明確に区別すべきである 経営者の個性や信条が企業活動を牽引し方向付けしていくことは否定されるべきことではなく、逆に他社との差別化や社会的な存在価値を高めていくために必須の要素であると考える。ただし、公私混同による私物化や利益相反行為を排除するため、自主的に一定のルールを設け、今後はこれに従う。
会社の業務に直接関連のない話題には触れるべきではない 企業の理念や事業のコンセプトは、業務の遂行をとおして具現化されるべきである。ただし、それらは本来抽象的な目的意識や価値観を含むものであり、その醸成のためにも経営者個人が具体的な業務との関連の中でしか語ってはいけないとは考えない。
社会的、政治的、宗教的なメッセージは掲載すべきでない 企業が事業活動を離れた政治的、宗教的目的を追求することは適当でない。しかし、企業が社会的存在である以上、その活動は一定の社会性、政治性を持つのであり、それを自己目的化せず、企業の理念や事業のコンセプト実現のために行うのであれば制約を設ける必要はないと考える。
事業の拡大や株式公開などにともない、経営者個人の発言は慎むべきである 不特定多数の株主を含めた利害関係者の増大と多様化に対する配慮、マスメディア報道などによる予期せぬ反応に対する慎重さが求められるが、部分的な反発や誤解のみを恐れた自主規制は本末転倒である。したがって、現時点では本質的な方針変更は必要ないと考える。ただし、批判や誤解に対しては速やかに対応し、理念やコンセプトを理解いただくよう最大限努める。

■経営者個人が、経営者であることを明示した上で行う個人的発言について守るべきルール

・ 会社の公式見解ではなく、個人的な意見であることを明示する。
・ 個人サイトに関する費用は個人が負担する。
・ 結果的にであっても、短期的にも長期的にも明らかに会社の利益を損ねる言動は慎む。
・ 発言の責任は、会社ではなく個人に帰することを認めたうえで行う。

■具体的対応

1.個人的な性格の強いコンテンツは、個人契約の別ドメインのサイトに移動する。

2.ただし、「旅籠屋日記」は「旅籠屋」の事業紹介やコンセプトを訴求する性格を持ち会社にとっての有用性が高いと考えるため、従来どおり「旅籠屋」サイト内に置き、会社の公式見解ではなく、個人的な意見であることを明示したうえでサイト来訪者が容易に閲覧できる状況を維持する。

3.「旅籠屋日記」は「旅籠屋」のコンセプトを生み出し実現しようとする創業社長のメッセージであり、名称の変更は行わない。

4.「旅籠屋日記」の書き込みについては、上記のルールに従い、個人的な利益につながる発言を行わず、たとえ結果的にであっても、短期的にも長期的にも明らかに会社の利益を損ねる言動は慎む。ただし、社会的、政治的な内容であることのみをもって利益を損ねるとは断定しない。

5.5月6日の書き込みについては、それ以降の書き込みによってその主旨を詳細に語っており、そのこと自体が「旅籠屋」の企業姿勢を表す面もあり、また利益を損ねていると断定できないため削除しない。

6.「旅籠屋の主人」というネット上の呼称は、前後関係なく発信され誤解と悪印象を生じる可能性を否定できないため、今後は用いない。

7.1は別ドメインの取得などに時間を要するため5月末までに、その他については即刻実施する。


以上が、数日間考えに考えた結果の結論です。結果的に、大きな変更はないように思われるかもしれませんが、問題提起の主旨と心情は理解したつもりで、おかげで曖昧だったスタンスは、より自覚的で明確なものになりました。話題の選び方や表現のトーンなどにも多少の変化が生じるかもしれません。私としても、結果として多くの誤解を招く「独りよがり」は本意ではないからです。たしかに今までのように気楽に無邪気に書くことは難しくなりました、かと言って当たり障りのないことばかりを書くつもりはありません。
もちろん、 今後、更なる問題提起によって、「旅籠屋日記」に関するスタンスをさらに見直すことも当然ありうることです。引き続き、率直なご批判やご意見をいただければ幸いです。
2004年7月31日 感動した

サッカー日本代表の国際試合は可能な限り全試合見ているが、今夜のアジアカップ準々決勝、日本対ヨルダン戦は忘れられない試合になった。
感動した。

テニスで言えば、3回のマッチポイントをリターエースではね返したようなものだ。サッカーの世界においてアジアの地位は低い。だから、世界的に見ると、あまり注目されていないのかもしれないが、間違いなく「奇跡的な勝利」として歴史に残るべき試合だったと思う。しかし、記憶されるべきは「大逆転勝利」という結果よりも、日本代表選手たちの戦いぶりだったと思う。

ホスト国にあるまじき地元観客の愚劣な態度には毎回頭に来ていたが、そういう環境の中でも感情を抑えながら最後の最後までひたむきに全力を出し続けた選手たち。陳腐な言い方だが、サムライという言葉が頭をよぎった。今日の試合を見た人の多くが、代表選手たちの「感情をコントロールする意志の力」に心動かされたと思う。相手を茶化したり投げやりな態度をとらないフェアな態度、四面楚歌の状況でも自分を見失わない冷静さ。仮に敗戦に終わっていたとしても彼らはツバを吐きかけたり、レフェリーに暴言を投げつけたりせず静かにピッチを後にしただろう。以前は、そういう物言わぬ「おとなしさ」が日本人の「ひ弱さ」に感じられることも多かったが、海外で「冷や飯」を食わされながら自暴自棄に陥らず精進を続けてきた選手たちの活躍は次元の違う「たくましさ」として伝わってきた。

日本という国や、日本人に失望することの多い昨今、久しぶりに日本人であることに誇りを持てた。 愛国心とか誇りというものは、学校で君が代を歌うことを強制したり、教育基本法にことさら言葉を足すようなことじゃないと思う。政治家も、企業人も、目先の保身や利益だけに振り回されず、周囲に迎合せず信じる道を進むべきなのだと、私はあらためて思ったしだいである。 敬意と共感こそが、誇りと愛情の強固な基盤になる。

日本人も捨てたモンじゃない。日本人の持っている国民性の良質な部分を確認できたようで、私はとても嬉しかったし、背筋が伸びた。

スポーツバラエティやワイドショーの次元で矮小化しないでほしいな。

2004年8月22日 埋められない穴

きのうの昼過ぎ、愛犬マギーが遠いところに行ってしまいました。無念です。悲しいです。

11年あまりの一生は「旅籠屋」の歴史と重なります。次から次にたくさんの思い出が浮かんできます。 両親の飼い犬ですが、半分近くは私と一緒に暮らしていました。会社設立の前後、狭いマンションの一室に預かった頃はまだトイレが覚えられず、汚物まみれになって毎日お風呂場で洗ってやりました。「鬼怒川店」がオープンして私がひとりで住み込んでいた頃はお客さんが来るたびにフロントに走っていって愛嬌を振りまいていました。東京に戻って今のビルに皆が集まって住むようになってからは各フロアーを行ったりきたりして心を癒してくれました。

いろいろと苦しかった毎日、邪気のない表情と仕草にどれほど救われたか知れません。それに比べ私はどれだけの愛情を与えてあげたのだろうか。やはり悔いが残ります。振り向けばいつもマギーがいた、そんな感じです。

8月に入ってから突然様子がおかしくなり、24時間交替でつきっきりの看病をしました。私も深夜から明け方近くまでオリンピックを見ながらそばに居ました。進行が速く、20日足らずであっという間に遠くへ行ってしまいました。

きょう、マギーはダンボールの棺に入れられ、荼毘にふされました。息をしなくなった時、冷たい骸になっていく時、焼却炉の中に消えていく時、驚くほどわずかの骨になってしまった時、何度も何度も声を上げて泣きました。どんなに愛しく思っても、もうなにひとつしてあげられません。空いてしまった穴を埋めることができません。

ペットロス、珍しいことではありません。 たかが犬のことでと笑う人もいるでしょう。でも、いつもそばにいた愛する者を失った悲しみは同じです。これからは、何を見ても何をしていても「彼女がそこにいたこと」を思い出し、胸が締め付けられるような思いに苦しめられます。時間だけが薬だと知っています。少しずつ、ほんの少しずつ、つらい思いが軽くなっていくのでしょう。

こういう時、つくづく歳をとるのはいやだなぁと思います。忘れられない悲しみが心の底にたまっていきます。そういう思い出が増え、だんだんと生きていくのがつらくなっていきます。人生とは大切な人を失っていくことだと聞いたことがあります。どうせそんな悲しみに囚われてしまうのなら、あくせく努力したり、前向きに頑張ってきたことに一体何の意味があったのだろうと空しくなります。

今、お別れを言う気には到底なれませんが、とりあえず「ありがとう」と心の底から言います。とてもとても心の優しい犬でした。 ほんとうに、ほんとうにありがとう。

2004年12月3日 アメリカMOTEL視察

11月23日の勤労感謝の日が終わると、年末年始を除き、春まではもっともお客さんの少ない季節だ。そのタイミングを狙って、本社スタッフにアメリカMOTEL視察に行ってもらっている。こんな商売をやっていながら、じつは大部分の社員はアメリカのMOTELの実体験がないのだ。もう何年も前からこういう機会を作りたいと考えていたのだが、経済的にまったく不可能だった。今も余裕があるとは言えないのだが、資金繰りを左右したり、黒字計上に支障をきたす状況ではなくなった。留守を守りながら、ようやく念願がかなった幸せをしみじみと感じている。

12年前、初めてMOTELを泊まり歩いた時に受けたカルチャーショックを今でも覚えている。サービス業というイメージからかけ離れた、素っ気無い宿。1室20ドルというクラスになると建物も部屋も、そして人間もけっして上等とは言えず、なんとなくわびしい印象を受けたものだ。ところが、慣れてくると、あえて飾ろうとしない、こちらのご機嫌をとろうとしない開き直りが快く感じられるようになった。より高級に、よりゴージャスに見せようという「みせかけ」を追わないだけ、ウソがない。設備が劣り、建物が古びていれば、それなりに料金を安く設定する。かといって、卑屈になっている風でもない。「俺のところは、こんなだけど、まぁ見かけほど悪かないよ。ちゃんと快適に眠れるし、シャワーだって部屋についてるぜ。何より安いのがサービスだろ」って胸を張ってる。なんだか正直で潔い。こっちも割り切って泊まるから余計な期待をしない。高級志向のホテルと違って、「どうだ、凄いだろう」という押し付けがましい威圧感が微塵もないから、やけに気楽な気分になってくる。

今頃は、2軒目のMOTELでの朝。時差ぼけも治まり、右側運転にも慣れて、そろそろ旅気分にひたれるようになった頃だろうか。同じ宿に泊まり、同じ旅をしても、感じることは人それぞれだ。だから、彼らが私と同じような感想を持つことはないかもしれない。それはそれで良い。ただ、今後の「旅籠屋」の事業展開にあたって、リアルな体験を共有しながら話しが出来ることは大きなプラスになるに違いない。そう、旅ばかりは実際に行かなきゃ味わえないものなのだ。

来年からは、各店舗の支配人にも、順次出かけてもらう予定だ。なんだか、私も、やっぱりまた行きたくなってきたぞ。


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「旅籠屋主人のベンチャー日記」 (雑誌「戦略経営者」連載)はこちら

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