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2002年
2002.2/10 そもそも何のために
2002.2/20 悲しいこと、嬉しいこと
2002.3/12 信用調査
2002.5/27 Wカップ再び
2002.6/3 毅然としろ
2002.6/17 サッカー文化
2002.8/15 8耐、曲がり角
2002.9/15 人間不信
2002.10/26 無神経
2002.11/5 同情できないよ

2002年2月10日  そもそも何のために

私はアルコールが苦手だ。社交的な性格でもない。だから、ノミニケーションから逃げ回ってきた。サラリーマン時代、「そんなことでは勤まらないぞ」と上司に言われたことがあるし、事業を立ち上げた後も「夜のつきあいは情報収集に必須ですよ」とアドバイスされたこともある。たしかに付き合いが悪いことで世界を狭くしている面もあるだろうが、今更このスタイルを変えるつもりはない。ストレスに強い人間じゃないし、イヤなことはイヤ、それでいいと割り切っている。だいたい酒を飲んで深まる相互理解や親睦ってなんなのよ。

というわけで、酒を飲みながら語り合う機会というのは年に数回もないのだけれど、気心の知れた人と、ベタに仕事がらみでなければ、気軽に出かけていくこともある。
つい数日前、そういう珍しい夜があった。メンバーは私を含めて4人。2人はここ1〜2年の間に会社を興した20代の社長さんたちである。事業を始める際に多少のアドバイスをしたこともあって、その後の状況と今後が気になる。
いろいろと話しを聞いてみると、やはりなかなかたいへんらしい。一部は私が通ってきた道であり、悩みやつらさがよくわかる。そうした逆境にあっても情熱と自信を失わないのはすばらしい。刺激を受けることもあった。最後には「旅籠屋さん、最近円くなったというか、余裕が出来てハングリーさが薄れてきたんじゃないですか。もっとガンガン行ってくださいよ」なんて言われてしまった。そんことないのにねぇ。

言いたい放題の5時間だったが、私はその夜、ひとつの重要なことを考えさせらた。そもそも何のために事業を始めたのか、何のために会社があるのか。自分に問うてみる。重くて、深い。

情熱は往々にして個人的な情熱である。しかし、事業を始めると、なかなか思うように行かない。いきなり黒字ということは稀だ。利益が上げられなければ会社を続けられないから軌道修正をしなければならなくなる。そして、ようやく軌道に乗り始め、事業を拡大しようとすると自分ひとりでは出来ない。社員が増え、組織が生まれる。株主が増えることもある。こうして会社の利害関係者は多様になり、複雑になっていく。それぞれの段階で、会社を生み出し育ててきた経営者の「情熱」が「企業の目的や存在意義」になり得ているのかが問われることになる。立場の違う利害関係者にも受け入れられる一定の普遍性と合理性を持っているか。逆に、経営者個人の意欲を失わせる方向に向かってはいないか。

これは、どの企業にとっても重要な問題である。とりわけベンチャー企業にとっては、死活的な問題である。あまり語られることのないテーマのようだが、日を変えて少しずつ考えてみようと思う。

2002年2月20日  悲しいこと、嬉しいこと

冬季オリンピックももう終盤だ。あちこちで審判の公平性が問題になっている。明らかに政治的な力学が働いてしまっている決着のつけ方を含め、やりきれない気持ちになる。競技者でなくて良かった。

昔勤めていた会社の同僚が亡くなったとの知らせ。とても誠実でまっすぐな男だったのに。なぜ、どうして。10年以上も会っていないし、詳しいことはわからないが、彼らしく生きられた47年間だったのか。多分、会社を辞めてよかった。
通夜には行かなかった。許せ。

鈴木宗男と田中真紀子が参考人として登場した予算委員会。たたきあげの「濁」と、評論家的な「清」。泥試合。水掛け論。政治家でなくてよかった。

NHKで田中正造の一生を紹介していた。生涯を賭けて足尾鉱毒事件を闘った人だ。彼の言葉をふたつ。

いにしえの治水は地勢による。
あたかも山水の画を見るごとし。
しかるに今の治水はこれに反し、定規をもって経(たて)の筋を引くごとし。
山にも岡にもとんちゃくなく、真直に直角につくる。
治水は造るものにあらず。
我々はただ山を愛し、川を愛するのみ。
いわんや人類をや。
これ治水の大要なり。

真の文明は山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし。

前回の日記の前段について、意見をいただいた。誤解を招かないために補足する。
私は、酒を飲んだり食事をしたりして交友を深めることを否定するつもりはない。むしろ、こうした時間を共有できることこそが友人であり、知人であることの本質であるとも思っている。ただ、酒を酌み交わすことが「つきあい」の前提であるとか、心を通わすことに必須のことであるといった「酒飲みの押し付けがましい作法」に納得しない。そういうことです。

2002年3月12日  信用調査

新店舗の建築コストを合理的に節減するため、今年に入って工場製作部材について多くのメーカーと直接交渉を行った。結果として、旅籠屋用のオリジナル製品を組み立ててもらったり、調達ルートを一本化して安価な価格で供給してもらうことで話がまとまった。これも、「旅籠屋」の実績が認められ、コンスタントに店舗が増えていく見通しを信頼してもらえるようになったからこそである。

しかし、当然のことかもしれないが、その過程で、当社に対する信用調査の依頼があったようで、先月、東京商工リサーチや帝国データバンクの調査員が続けて訪ねてきた。「沼田店」以降、土地所有者に建物を建てていただき家賃を支払う方式での出店が続いているから、数年前から何度もこうした調査を受けており、調査員とも顔なじみになっていたりする。当社はIR情報をすっかりオープンにしているし、まったく何の隠し事もない、おそらくとても珍しい会社なので、調査自体にはもちろんなんの問題もない。逆に取引先の信用調査の売込みを受けたりして、無料で調査レポートが送られてきたりする。

というわけで、なにげなくそのレポートを眺めていたら、「***店」の建築をお願いした建設会社が昨年末に倒産していた事実を知った。工事自体は数年前のことだから当社が実害を被ることはないのだが、工事中に何度も顔をあわせて打ち合わせをしたその会社の専務さんの顔が思い出された。日本の金融機関のおかしな習慣で、中小企業の借金にはすべて役員個人の連帯保証が義務付けられたりするから、おそらく彼個人の生活も滅茶苦茶になっているに違いない。気の毒でならない
先日も、出店候補地を探してくれていたある中堅ゼネコンの経営破たんがあり、担当者から律儀に電話をもらって、思わず励ましの言葉を送ってしまった。
幸い、当社は売上も支払いもすべて現金だから、他社の影響を受けることも、その逆もないから安心なのだが、もし手形商売だったらと思うと
ぞっとする。この不況の中、赤字会社でありながら、毎晩枕を高くして寝ていられる私は幸せ者かもしれない。

この周辺、浅草蔵前界隈は古くからの問屋や小さな工場が数多く集まっている場所である。ここ1年くらいの間、散歩の途中で、閉店の挨拶や差し押さえの文書を見かけることが珍しくなくなった。あの店員さんは給料をもらえたのだろうか、上に住んでいたに違いない社長さんの一家は夜逃げでもしたのだろうか、ついつい、そんなことを想像してしまう。気の毒でならない

企業の経営破綻には、連鎖倒産のような不運な要因もあるだろうが、経営者にはやはり見通しの甘さやリスクヘッジを怠った責任がある。しかし、中小企業の場合、経営者自身が個人の財産や生活の場を失うということで、結果的にその責めを負わされているように見える。それにくらべ、相変わらず「減点されない」ことだけを行動の規範として逃げ回っている「大企業的な」サラリーマンたちの見苦しさが腹立たしくてならない。そんな余剰人員を飼っている会社こそ、はやくガラガラポンとなったほうが良いのだ。

利益の額だけで企業の価値が語られて良いとは思わない。なんでも競わせる社会が人間を幸せにするとは思わない。しかし、リスクを負って決断し行動している人たちの勇気が正当に報われる社会であってほしい。そして、つまづいても軽蔑されず再起できる世の中であってほしい。がんばってください、S専務!

2002年5月27日  Wカップ再び

なんと、今週末にはWカップが開幕する。今から、ドキドキしている。しかし、先日の日本代表のメンバー選考の結果には納得できなかった。4年前のカズ落選の驚きと失望を思い出した。少し長くなるが、その時に書いた日記の一部を再録する。

・・・中田を選ぶことと、カズを外すということには、共通の思考基準があるように思う。すなわち、勝負にこだわるための合理性に従おうするか、儒教的なメンタリティとの調和を重んじるか、ということである。多分、前者はグローバルスタンダードの厳しさであり、後者は「日本的な甘さ」なのだろう。今回の決定の当事者である大仁強化委員長もこの点をわきまえており、「弱肉強食は世界の常識でも、日本では違う状況もある」という発言に迷いの深さが表れている。
スポーツの世界に限らず、日本人が世界の舞台で生きていかざるを得ない現在、その特殊性や未熟さを指摘されることが多い。私も日本や日本人の曖昧さや理念の欠落に苛立つことが多いのは、この日記に繰り返し書いているとおりである。しかし、ここで忘れてならないのは、グローバルスタンダードに同化すること自体を目的とするのなら、いつまで経っても亀を追うアキレスに過ぎないということである。アメリカ的な合理性が唯一の基準ではないし、ヨーロッパ的なマキャベリズムが成熟の証しでもない。我々は日本の伝統と体験をもとに独自のモデルを提示していくことが大切なのだと思う。それはもちろん、かつての矮小化された民族思想に回帰しようなどというものではない。
話しが大袈裟になったが、私個人はW杯において、勝利という結果よりも、記憶に残るパフォーマンスを日本代表に期待している。それは外国に対してだけでなく国内に対してもそうだ。カズの言葉にあった「誇りや魂」を重んじる「美学」を体言してみせて欲しいと願っている。その意味で、カズを外すなら、あえて中田を外して欲しかった。このままミニ・ブラジルやミニ・ドイツを目指してどうなるというのだ・・・

読み返してみて、私の感性が4年前と変わっていないことに気がついた。今回も、俊輔や名波を、そしてカズを選んで欲しかった。「日本代表」とは、日本最強のチームである以前に、我々の多くが納得し、気持ちをひとつにして応援できるという意味で「代表」であって欲しいと思う。とはいえ、私を含め大部分の人間は、結局はマスコミの論調に引っ張られて物事を見ている。だから、トルシエは俊輔や名波やカズを選ばないことが失望を招かないように、注意深く世論誘導をしておくべきだったのだ。気持ちよく、だまして欲しかった。

私個人の毎日は、悲喜こもごもである。運命を呪いたくなることもあったりする(仕事のことじゃないですよ。為念)。しかし、それはそれとしてWカップを楽しもうと思う。幸運と善意によって、日本・ベルギー戦のチケットをゲットできたのだ。ありがとう。燃え尽きてくるぜ。

2002年6月3日 毅然としろ
いよいよ、明日だ。日本・ベルギー戦。ゼッケン85番、HATAGOYA(そんな選手いない?サポーターの私ですよ!)という名前入りのレプリカユニフォームを着て、応援に行くのだ!
かなり心配したけれど、先週チケットも手元に届いたし、準備万端。今からドキドキしている。

しかし、今回のチケット問題はいったいどうなっているのだ。テレビを見ていても明らかに空席が目立つ。マスコミ報道の断片でしか情報が入らないが、FIFAの利権がらみのお手盛り業者選定。お人好しのJAWOC。後手後手の対応。あー情けない。4年前の教訓はどう生かされたのか。結局、世界を牛耳るFIFAにコケにされっぱなしじゃないの。韓国では訴訟を検討中、日本側は白紙だそうだ。どうして怒らない、どこまでお人好しなんだ、この国の偉い人たちは

だいたい、世界を相手にするのだから、約束は破られる、正直者はだまされると思って準備すべきじゃないの。肝心のチケットもお金も相手の手の内にある、なんて、交渉も駆け引きもできゃしない。あー情けない。今となっては、とにかく世界のマスコミの報道を圧力に利用して、最大限声高に脅しをかけるしか残された手はないのだ。その点、韓国サイドの対応は、完全に正しい。争わないことが美徳なんて、日本人同士でしか通用しないことだ。ブラフでもよいから、世界中に見える形で、とにかくケツまくって相手を追い詰めろ。

日本サッカーの実力を世界に示すこと以上に、これは重要な勝負じゃないのか。
イギリスの印刷会社になめられるような日本ってなんなのよ。
追い詰められるチャンスは今しかないぞ。責めるなら今しかない。パス回ししてないで、ゴールへ迫れ。

2002年6月17日 サッカー文化

Wカップも残りわずかとなった。なんと、日本が決勝トーナメントに進んでいる。おかげさまでベルギー戦は実際にスタンドで応援できたし(観戦記をまとめました)、時差に悩まされずテレビ観戦できるし、存分にサッカーを堪能している。

Wカップはスポーツにとどまらず国と国との戦いだという人がいる。少々大げさではないかと思っていたが、確かに、サポーターの応援ぶりを含め、それぞれの国民性が強烈に伝わってくる。生活の中でのサッカーの占める濃淡、代表チームへの思い入れの強弱に、さまざまな背景や事情が見え隠れしている。サッカー文化と言われることの意味を少し理解できたような気がする。

残念ながらベスト16で敗退してしまったアイルランド。最初から最後まで全力で戦う選手たちの気迫に魅せられたが、それ以上にサポーターの気持ちの強さに感銘を受けた。解説によれば、緑の装いのサポーターの半分はアイルランド本国からではなく、世界中から母国の応援のために集まってきた人たちなのだそうだ。民族のアイデンティティの強さに驚かされる。これは、アイリッシュたちの悲惨な過去や差別の歴史と無縁ではないだろう。
現在ほとんどがフランスで生活していながら、
かつての宗主国にだけは負けたくないというセネガル選手の思いにも心打たれた。民族や国家への帰属意識は、長い間他国の支配を受けていた国ほど強いのかもしれない。アフリカ諸国・東欧・南アメリカ、そして韓国。熱狂的な応援であっても西欧諸国の場合とは質的に違うような印象を受ける。

さて、いっぽう、日本の場合はどうか。イケメン軍団に浮かれるミーハーはご愛嬌として、国家や民族の尊厳を賭けた戦いという意識は希薄なのではないか。国内の日本人だけではない。ブラジルの日系人社会では、1世は日本、2世以降はブラジルを応援する傾向があるのだそうで、血の薄さを感じてしまう。よく言われるように、島国という地理的な条件、自然に恵まれた温暖な気候、他国の侵略によって存亡の危機をさまようことのなかった歴史が、世界でも稀な「こだわりのない国民性」を育み、許してきたのかもしれない。

加えて、私のように戦後教育を受けた世代には、日の丸を掲げ、君が代を歌うことに躊躇する習性がある。日本チームを応援しても、他国への敵愾心をあらわにする所までは行けない。事実の解明や責任の所在を曖昧にすることで居場所を探してきた戦後は、我々に妙な後ろめたさとフラストレーションを与えてきた。その典型が韓国に対する遠慮がちな気分だ。

ところが、どうも味わったことのない胎動が生まれ始めている。日韓共催という現実と、参加各国のむき出しの国家意識・民族意識を目の当たりにして、思いを屈折させ沈めていたぶ厚いベールが少しずつ剥ぎ取られていくのを感じる。学校でも国技館でも一度も君が代斉唱に加わったことのなかった私が、さいたまスタジアムでは大声で歌った。サポーターの掲げる無数の日の丸に泣きそうになるほど感動した。これは悪くない気分だ。長い間のコンプレックスから少しずつ解放され、くびきが解けはじめ、薄暗い霧が晴れていく感じ、体中が軽くなっていくような気がする。

チュニジア戦をテレビで見ていたら、スタンドの若いサポーターたちが「日本、大好き」というパネルを掲げていた。若者の多くが生まれ育った国に愛想をつかし、自己実現の場を外国に求める幻想を追っている日本、その気持ちが痛いほどわかるだけに、この光景は鮮烈な印象を私に与えてくれた。たかがサッカー、されどサッカーである。政治家たちが国旗・国歌法を強行採決したのとはまったく別の次元で、日本人であることに自然に誇りをもてる状況が、そしてその気持ちを素直に表現する気分がWカップの舞台で現実のものになりつつある。

争ってはいけないというトラウマに捕われ、平和的解決という結果だけを追って妥協することに慣れ過ぎた日本人。争わないために本音を隠し続けているうちに自分を見つめ語ることを忘れてしまった日本人。我々にとって、サッカーというスポーツは、勝つために自らを見つめ、徹底的に競争し争うことのすがすがしさをほんとうに久しぶりに見せ付けてくれている。選手たちの闘争心や喜怒哀楽の表現が、眠っていたものを呼び覚ましてくれているように感じる。

私は、ずっと日本人であることに誇りを持ちたいと願い続けてきた。日本人も捨てたもんじゃないぞ、日本は素晴らしい国だと思わせてほしいと願い続けてきた。それなのに、政治の世界もビジネスの世界もロクにニュースがない。うんざりするような事が、もう何十年も続いている。トラウマを克服できず、出る杭を打ち無菌化することを良識のように吹聴してきたマスコミ、逆に形式的な組織論や威圧的なナショナリズムに頼るしか能のないエスタブリッシュメント。そんな中で無我夢中にピッチを走り回り真摯に戦い続ける選手たちは、確かに一陣の風を送ってくれている。

もちろん、こんなことは当の選手たちの意識とは無縁のことだ。しかし、微かに吹き始めた風によって晴れてきた霧の方向に求めていた何かがあるという予感がする。Wカップが終わり、皆が再び視線を落としてしまう前に、再びベールで心を覆ってしまう前に、この風が止むことなく吹いてくれないものか。

肝心のマスコミのお粗末な感性はどうだ。「次の試合、日本は勝てますかねぇ」という分析と、人気選手の追っかけと、サポーターの熱狂ぶり、伝えるのはそればかりだ。たとえばストイコビッチを招いたなら一言でも旧ユーゴが分裂し、かつての仲間がスロベニアやクロアチアとして参加していることについてのコメントを求めみたいとは思わないのか。アイルランドのサポーターの心情に迫るインタビューはできないのか。残念ながら、風はまた止んでしまうのだろう。

2002年8月15日  8耐、曲がり角

先日、鈴鹿サーキットに8耐観戦に行ってきた。今年は25回目の記念大会ということだったが、私が初めて見に行ったのは10回大会、1987年のことだ。以来15年間、ほぼ欠かさず通っているが、はっきり言って年々つまらなくなってきているように感じる。往復の交通費や宿代やチケット代を合計して5万円前後の出費に見合うだけの満足感が得られなくなっている。ここ3年間は微力ながらサポートしている「チーム旅籠屋」が参戦しているので、まったく違う感動や落胆があったりするが、それは別の話し。あくまでレース観戦者としての感想である。

8耐は世界のトップライダーが参戦する唯一の耐久レースということで、世界的にも特別なレースである。日本は世界の2輪産業の中心を占める4大メーカーの地元、しかも市販者に近いマシンが走るレースということもあって、メーカーもライダーも真剣勝負の争いを繰り広げる。加えて特筆すべきことは、このレースがプライベーターにも門戸が開かれている点だ。そもそも耐久レースというのは予期せぬトラブルやアクシデントが起きる可能性が高いから強い者が必ず勝つとは限らない。事実、かつては世界のHONDAがヨシムラやモリワキに敗れるという番狂わせも珍しいことではなかった。1987年も、残り5分にヨシムラのマシンが転倒して優勝を逃すという最高にドラマチックなレースだった。これ以降の大会でも、残り1時間を切ってトップのマシンがリタイアしたり、夜間走行になって接近戦になるなど、劇的なシーンがいくつも演じられてきた。
ところが、ここ数年は、トップチームであるHONDAの独走優勝が続いている。プライベートチームはもちろん、他のメーカーワークスチームもかなわない。そんなこともあってか、とうとう今年はカワサキのワークスが参加を取りやめてしまった。
最高レベルの真剣勝負でなければレースとしての値打ちは低くなってしまう。だからHONDAが手を抜かず全力でマシンを開発し、トップライダーを集めてくるのは素晴らしいことだ。しかし、事前あるいは途中の段階でほとんど結果の見えてしまうレースほどつまらないものはない。
1周コンマ数秒のタイムを縮める、何時間走ってもトラブルを起こさないマシンの開発には、たいへんな資金と技術力がかかるに違いない。それはもう以前のような卓越した個人の能力や情熱では届かないレベルに達してしまっているのだろう。最近のレース結果は、偶然ではなく、必然の結果のように思える。そこが、レースとしては、大問題なのだ。

たしかに、レース観戦の環境という面では、周辺道路の整備、スタンドやトイレの増設、順位ボードの改善など、主催者サイドの努力は明らかだ。それなのに肝心のレースがつまらない。

レースには、参加する者の真剣勝負の競い合いという面と観戦する者を魅了する興行というふたつの面がある。8耐に関しては、これらの食い違いが徐々に大きくなってきているといえるのではないだろうか。ひじょうに乱暴に言えば、アメリカは後者に重点を置き、ヨーロッパや日本は前者を重視しているように感じられる。4輪のカートとF1を比較するとわかりやすい。これはモータースポーツに限ったことではなく、スポーツイベントすべてに言える。そうした中で、サッカーのWカップのように世紀を越えて続いている大会の運営者の知恵には敬服せざるを得ない。守るべき伝統と時代に合わせた手直し、貫くべき原則と臨機応変の妥協。矛盾するものを容認し、清濁を併せ呑んでまとめ上げていく手練手管には畏敬の念を抱かざるを得ない。これは、日本人には苦手なことだ。

メーカーワークスの参加台数を2台以下に制限してはどうか、改造範囲を極端に制限してはどうかなど、レースを面白くするためのアイデアはいくつか思い浮かぶけれど、結局はモグラたたきに終わるに違いない。さて、どうしたものか。

2002年9月15日 人間不信

昨日、当社の第8期定時株主総会が開かれた。赤字拡大の理由や出店スピードの遅さなどについて厳しい指摘もあり、続いて開いた事業報告会とあわせ、3時間以上の会議になった。もともとシャンシャン総会にするつもりなどないし、会社経営についての率直な意見交換をすることはとても意義のあることだから時間がかかるのは悪いことではない。日々最善を尽くしているつもりでも、社内ではどうしても「慣れ」や「常識」に流されている面があるから、利害関係者からの刺激は貴重である。そっさく、週明けに今後の事業の進め方についての検討会を開き、指摘された点をじっくり受け止めて改善策を実行していくことになった。多数の一般個人投資家の存在は、IRなどの面で負担になることもあるが、一定のチェックがかかるという点では経営の健全化にプラスになると思う。

それはそれとして、一部に心外な発言があったのは残念なことだった。「(細かい数字の解釈に関して)そんなこともわからないのか」あるいは「本社の人間は、店舗に食わせてもらっているのだから」・・・。初対面の人間にそんなことを言われる筋合いはまったくないのだが、そんな発言が出てくる背景には経営者一般に対する不信感があるのだろう。どうせ、ロクな経営をしていないに違いない。能力のない人間が偉そうに経営者ヅラをしているんだろう・・・そんな先入観があるのだろう。

50年も生きていると癒えることのない傷がいくつかはある。会社も設立から8年が過ぎて、思い出したくない出来事も少しは経験してきた。あえて振り返ってみれば、そのほとんどは人間関係の問題、もっと具体的に言えば人間不信を突きつけられたことによって受けた心の傷である。人間関係なのだから相対的な問題であり、誰が良くて誰が悪いと一方的に結論付けられないことで、だからこそ迷宮に入り込んだまま心の底にトゲをもったまま沈殿してしまうのである。

自分の思いがまっすぐに伝わらない。誤解されて反感を買う。予断や先入観で判断され、軽視され、侮蔑され、拒絶される。こちらが懸命であればあるほど、受ける傷は深い。悲しく、情けなく、腹立たしい。

残念ながら、これは一定の知能と引き換えに人間に課せられた負の宿命なのだろう。逆の立場に立てば、私も多くの人に対し、無神経で無遠慮な言動を繰り返してきたのかもしれない。予断や偏見にとらわれず、常に相手に対する敬意を失わずに接すること、自らに対する戒めとすることにしよう。

何だか、オヤジくさいエッセイみたいになってしまった。オマエらしくないと叱られそうだ。

それにしても、いつも不信感を突きつけられる政治家ってたいへんだなぁ。どういう精神構造の人たちなんだろう。
吉田茂じゃないけれど、私ならすぐに
「ばかやろう」だ。

2002年10月26日 無神経

北朝鮮拉致問題で大騒ぎだ。数十年前、北朝鮮を理想郷のように持ち上げて、在日朝鮮人の「帰国」や日本人妻の「北行き」をあおったマスコミが、今度は被害者可哀想の大合唱だ。いつも正義の味方、インテリ面して世論を引っ張っているつもりの風見鶏。あー嘘ばっかり。無責任。不和雷同。

新聞によると、5人の一時帰国者を「北朝鮮に戻さずに、このまま日本に永住させる」方向で国が検討しているらしい。なんだか、みんな「そうだ、それがいい」と拍手を送っているみたいだが、私はとんでもないことだと思う。大いに違和感を感じる。

だって、彼らは、20年以上も北朝鮮で生活し、子供を育て、社会の一員として何かしらの立場を築いてきているわけだし、その生活を周りの人間が壊す権利はないんじゃないの。「20年も待ったんだ。2度と会えなくなるかもしれない」という年老いたご両親の心情はもちろん理解できる。しかし、子供たちには子供たちの生活が、孫たちにも孫たちの人生がある。今、日本に戻ってきてゼロから新しい人生を始めることがほんとうに幸せにつながることなのだろうか。孫たちにとっては言葉も文化も価値観も違う国であり、なおさらのことだ。帰るか残るか、それを決めるのは当人たちの判断、当たり前のことじゃないか。

日本に帰国した中国残留孤児の方々のその後をテレビで見たことがある。祖国に戻ったから幸せになるなんて幻想だ。どこかに日本人の傲慢があり、ベタベタの距離感の欠如があり、無神経な押し付けがある。5人が家族とともに日本で暮らし始めたとして、果たしてどういう人生が待っているのだろう。当人たちの立場になって想像してみたらどんなシーンが浮かんでくるだろう。ワイドショーレポーターが追い掛け回し、何かトラブルがあれば手のひらを返したように「国のおかげで戻ってこれたのに、国が生活費の面倒までみているのに・・・」なんて言い出しかねない。

自分の頭で考えず、いつも人の噂話にばかりに耳をそばだてている日本人。薄っぺらな道徳観、無責任な同情、ワイドショー世論に迎合する愚民政治。相変わらずご都合主義のマスコミ報道なんかに惑わされず、わがままに自分たちの個人的な意思を表明して欲しい。「今度は、皆さんが私たちを日本に拉致するのですか!」って叫んだら、鈍感な偽善者たちはなんと反応するだろうか。

2002年11月5日 同情できないよ
竹中問題とか言われて、銀行がたいへんらしい。金融危機とか、私にはよくわからないけど、でも、どうも銀行には同情できない。だって、大手金融機関の場合、20歳代で年収800万円以上ってほんと?私なんか、今もってそんな給料もらったことないよ。そんなに人件費を使ってる企業に同情なんてできないよ。冗談じゃないよ。おかしいよ。


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「旅籠屋主人のベンチャー日記」 (雑誌「戦略経営者」連載)はこちら

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